新聞週間の読売調査が改めて浮き彫りにした朝日と国民感覚のずれ
◆大局観培えと藤原氏
今、新聞週間(15~21日)の最中だ。今年の代表標語は「危機のとき 確かな情報 頼れる新聞」。読売の全国調査によれば、新聞の報道を全体として「信頼できる」と答えた人は76%に上る(14日付)。情報はテレビやネットに溢(あふ)れているが、新聞への信頼は依然として高い。
同調査では、新聞への期待(複数回答)は「情報を正確に伝える」71%、「事実をわかりやすく伝える」63%、「事実を公平、中立に伝える」57%が上位を占めており、読者は新聞に「確かな情報」を期待しているようだ。
新聞週間に寄せて数学者の藤原正彦氏は、新聞で「大局観」を培えと論じておられる(読売、朝日14日付など=同時掲載)。新聞は情報の洪水の中で溺(おぼ)れている現代人に情報を正しく選択するお手伝いをする。新聞で身に付けた知識を読書によって教養にまで高めれば、そこから大局観が生まれてくる。
「個々人が大局観を持たなくても指導者がきちんと判断してくれればいい、と思う人もいるだろう。だが賢人の独裁が最も効率的だとしても、理想的独裁者を選ぶ方法を人類は持っていない以上、欠陥はあるが民主主義に頼るほかない。民主主義とはつまるところ国民の多数決なのだから、政治家を選ぶ国民一人一人の大局観が重要になる。新聞と活字文化は、そのために必要だ」
大局観とは、今の流行(はや)りでいえば「俯瞰(ふかん)的、総合的」という意味だろう。メディアは民主主義社会にあって世論形成に絶大な影響力を持つ。それで「社会の木鐸(ぼくたく)」とか「第四権力」と呼ばれる。その一方で影響力に奢(おご)り「正義」を振りかざし、教養とは対極の憎悪を高める「煽動(せんどう)ジャーナリズム」に陥る習弊(しゅうへい)もある。そうなれば人々は「大局観」を見失い衆愚と化す。それだけに「新聞の品格」が問われている。藤原氏は新聞にも大局観を求めたかったのではなかろうか。
◆権力を敵視する朝日
朝日は「事実を追う 権力を問う」(14日付・新聞週間特集)と、もっぱら「権力監視」に目を向けている。安倍前政権下では「権力監視こそ新聞社の使命」と盛んに唱えていた。「報道は『権力の敵』」と凄(すご)んだこともあった(2018年8月18日付夕刊コラム『素粒子』)。
だが、民主主義社会では「権力」は国民が選挙で選び、権力の濫用(らんよう)を防ぐため三権分立を原則とする。そうした民主主義社会の「権力」を敵とするのは、国家を悪とするマルクス流階級国家観にほかならない。どう見ても藤原氏の新聞観から懸け離れている。
前記の読売世論調査は「今、新聞に期待していることがあれば、いくつでも選んで下さい」と、実に18の回答を用意している。その中に「権力を監視する」もある。上位三つはすでに見たが、それに続いたのは「地域に密着した情報を伝える」39%、「様々な意見や考え方を紹介する」37%、「出来事の背景や問題点を掘り下げて解説する」35%、「世の中の不正を追及する」35%、「情報を早く伝える」33%で、この後にようやく「権力を監視する」が出てくる。それも28%、つまり3割以下だ。
「新聞に期待することをいくつでも選んでください」と問われても7割の人はあえて「権力を監視する」を選ばなかった。それは読売の調査だからで、朝日調査なら違った結果が出ると、弁明できるだろうか。
◆「階級国家観」脱却を
7割という数字は意味深長だ。朝日は9月に安倍政権の7年8カ月の実績を問う世論調査を行ったが、「評価する」が71%を占めた(同4日付)。ここでも安倍否定の朝日の思考とは7割の違いがあった。「権力を監視する」も同様に7割の差だ。いかに朝日が国民感覚からずれているか、新聞週間の読売調査が改めて浮き彫りにしたと言える。
階級国家観から脱却しない限り、朝日が「頼れる新聞」になるのは夢のまた夢だ。
(増 記代司)