保守紙は今こそ堂々と憲法改正と緊急事態基本法の必要性を説くべし
◆まさに泥縄の特措法
つい辞書を引きたくなった。泥縄=事が起こってからあわてて用意をすること。付け焼き刃=一時その場を間に合わせるために、にわかに習い覚えること。後手=手おくれになること(いずれも広辞苑)。
新型コロナウイルスに対して海外は「緊急事態宣言」を発令している。ところが、わが国は先週、ようやく宣言できる法律(改正新型インフルエンザ対策特措法)を成立させた。どう見ても泥縄、付け焼き刃。これを後手と言わずに何と言えよう。こんな国は世界に例がない。
ところが、左派紙は相変わらず「人権」だ。朝日12日付社説は「懸念の解消なお遠い」と、「市民の権利を制限」する懸念を言い立て、毎日14日付社説は権利制限の歯止めを問題にし、「『緊急事態』に至らせないための対策にこそ、力を注ぐべきだ」と、惚(ぼ)けたことを言っている。
そもそも宣言は緊急事態に至らせないためのものだ。発令すれば、都道府県知事は外出の自粛や学校の休校、イベント自粛などの要請が可能。医薬品や食料などの売り渡し、医療施設のための土地や建物の強制使用もできる。
逆に言えば、宣言がなければ手を打てず、爆発的感染を許して人命を損なう。それこそ緊急事態。そうさせないための宣言発令なのに、それでもノー? 「平時」の現行憲法にいかれている証拠だ。
それで思い出したのだが、評論家の西部邁氏は、「歴史を振り返れば、俗世において危機が実際に発現し、カオス(混沌)とよんでさしつかえないような状態に国家が陥った事実がいくつも列挙することができる」と指摘し、通常は「非常」と呼ばれているような事態に対処する「規範」をもっているのが憲法だと述べておられた(「憲法意識―宗教的自然と歴史的当然」=月刊『ボイス』2000年6月号)。
◆人権規約蔑ろの朝毎
国際条約も「非常」に対する「規範」を持つ。例えば、市民の自由や権利を守るための「国際人権規約」(市民的及び政治的権利に関するB規約)は第4条に、国家は緊急事態に「必要な限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる」と規定する。朝毎は人権、人権と言うが、肝心の人権規約は蔑(ないがし)ろにしている。
だから、感染症危機には泥縄、付け焼き刃、後手の法律ではなく、憲法こそ問うべきなのだ。新聞でそう論じたのは本紙12日付社説「緊急事態宣言/憲法改正を置き去りにするな」のみ。他の保守紙は腰が引けている。
読売は憲法改正試案を誇っていたはずだ。1994年の1次案には緊急事態条項がなかったが、阪神大震災後に練り直し、新たに「緊急事態の宣言、指揮監督」(試案89条)を盛り込み、そのための法律も設けるとしていた。2004年5月には自民、民主、公明3党が「緊急事態基本法」の制定で合意した。
だが、日の目を見なかった。読売の後押しがいささか足らなかった。同法が制定されていれば、民主党政権といえども東日本大震災への対応は変わっていたことだろう。
産経は13年4月に発表した改憲試案(「国民の憲法」要綱)に緊急事態の章立てを設け、「緊急事態宣言」を盛り込んだ。その中で、「災害対策基本法や国民保護法を統合した『緊急事態基本法』の制定も必要になるだろう」(同4月26日付)としていた。
◆後手に甘んじる読産
読産両紙はそこまで踏み込んで緊急事態について論究していたのになぜ今回、特措法改正の泥縄、付け焼き刃、後手に甘んじているのか。西部氏はこうも言っておられた。
「非常事態が発生しても放っておきましょう、それが日本国憲法の規範感覚なのだ。それはアノミー(無規範状態)への屈伏ということであるから、実は、敗戦日本人の規範感覚は零近くまで衰退しつづけてきたといっても少しも過言ではない」(前掲)
保守紙は堂々と改憲、緊急事態基本法の必要性を説くべきではないか。
(増 記代司)