「人命より説明」を優先させ政府の感染症対策の足を引っ張る朝日

◆「司令塔喪失」の教訓

 大地震、大津波、原発事故の三重苦が襲った東日本大震災。それから明日で9年。新聞はその教訓を今回の新型感染症に生かそうとしているだろうか。

 安倍首相は緊急事態を宣言して感染症を封じ込める法整備を模索する。すると朝日5日付社説は「説明尽くし慎重判断を」と言った。感染症が広がるこの時期に説明を尽くせというのは反対宣言に等しい。また中韓両国からの入国を大幅に制限する措置を新たに打ち出すと、「自身の指導力を演出しようとする狙いが透けて見える」(6日付)と論(あげつら)った。

 7日付社説は「中韓入国制限 説明なき転換、またも」。またも、は朝日の「説明」の方に冠すべきだ。感染症を封じ込めるかどうか、時間との戦いの最中に「説明」ばかりを求めるのは足を引っ張るだけのこと。そう言えば、テレビ朝日のコメンテーター、後藤謙次氏も口を開けば「説明」だ。朝日にとっては「人命よりも説明」。緊急事態には使えぬ新聞である。

 東日本大震災の原発事故の教訓はどうだったか。震災の翌2012年2月、民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)は第三者の目でさまざまな角度から調べ報告書をまとめている。その結論は、原発事故の原因は「電源喪失」にあるが、事故後の混乱の原因は「司令塔喪失」にあると断じている。司令塔たるべき首相官邸の初動対応は「場当たり的で泥縄的な危機管理」であったとし、委員長の北澤宏一氏は「官邸主導による目立った過剰介入があった。そのほとんどは有効ではなかった」と厳しく批判している。

 安倍首相もこの罠(わな)(場当たり的で泥縄)に陥ってはなるまい。9年前の失敗は緊急事態宣言を発せず、「平時」で対応したことによる。憲法には緊急事態条項がないが、その“目を盗んで”さまざまな危機管理システムをつくってきたことを想起すべきだ。

必須の非常事態宣言

◆ 

 例えば、災害対策基本法には「災害緊急事態」の規定があり、生活必需物資の配給や譲渡、引き渡しなどの緊急措置を命令でき、支援物資を迅速に被災地に送れる。警察法には「非常事態の特別措置」があり、警察を首相直属として警察官25万人を総動員し人命救助や復興に当たれる。

 しかし、当時の民主党政権は護憲、警察敵視の過激派出身の菅直人首相や枝野幸男官房長官らで「緊急事態」の概念がなく「平時」で臨んだ。それで「政治指導」(という名の私的対応)に終始し、警察官の全国動員をためらい、消防にも統括指揮官を設けず、おまけに現地司令部も置かなかった。それで震災対策全体が場当たり泥縄になった。

 災害対策基本法が制定される契機となったのは伊勢湾台風(1959年)で、時の岸信介首相は被災地の名古屋市にいち早く「中部日本災害対策本部」を設置、現地本部長に副総理を据え、「速戦即決」で救援・復興を進めた。これを教訓に同法に「緊急事態」が盛り込まれた。

 ところが、新型コロナに対応する法整備がなされていない。それで安倍首相は現行の新型インフルエンザ等特措法を見直し、「緊急事態」の態勢を整えたいのだ。緊急事態を発すれば、知事の権限で外出自粛や催しの開催制限、施設の使用制限を命令できる。病院開設のための土地使用や物資運送も命令できる。

◆人命より人権の野党

 世界を見れば、イタリアが強権で地域封鎖に踏み切ったように、いずこの国も緊急事態を宣言し臨んでいる。どこに「お願い」にとどまっている国があろうか。それにもかかわらず、首相と会談した立憲民主党の枝野代表は「緊急事態宣言は慎重であるべきだ。私権制限が大きい」とクギを刺している(朝日5日付)。

 危機管理の「失敗者たち」の意見に従えば、大震災の失敗の二の舞いだ。新聞の「人命よりも説明」、野党の「人命よりも人権」。いずれも感染症対策潰(つぶ)しだ。それに乗れば、命が幾つあっても足りない。

(増 記代司)