日米安保条約改定から60年、豹変を繰り返す朝日の支離滅裂な社説
◆中ソに同調して変心
60年前の1月19日、日米安保条約が調印された。昭和35(1960)年のことである。当時を知る人は随分、少なくなったように思う。
「団塊の世代」は小学生か中学生になったばかりで、条約の中身よりデモの印象が強いという。なにせ学校では日教組の教師が盛んに反安保闘争を煽(あお)った。近所でデモに参加してきたお兄ちゃんがいれば、ちょっとした英雄だった。
その頃の安保は新安保と呼ばれた。サンフランシスコ平和条約と同時に発効した旧安保条約があったからだ。占領下に交渉された不平等条約で、朝日もこう言っていた。
「(旧)安保条約は、アメリカに対して、一方的にその軍隊を日本に駐留する権利を与えながら、日本を防衛する義務を規定していない…安保条約は改定されるべきである」(32年4月28日付社説)
岸内閣が本格的に改定交渉に入ると、中国の陳毅外交部長とソ連のグロムイコ外相が相次いで非難し、日本の「中立」を要求。これに呼応して共産党、社会党、総評、日教組などが34年3月、「安保改定阻止国民会議」を結成し、反安保闘争を繰り広げた。
すると朝日は豹変(ひょうへん)した。「中ソに対しても無用な疑惑を与えるような改定はしないこと」(同10月19日付社説)と主張し、岸信介首相ら日本全権団が35年1月16日に羽田から締結のために訪米すると、1面で「雪どけにそむいて 疑問を残す新安保」と批判。「改定、米国のため 日本を守る道・中立が最も良い」(同1月18日付)と中ソに同調した。
さらに安保条約が5月に国会で批准されると、同21日付1面トップに「岸退陣と総選挙を要求す」の異例の社説を掲げて闘争を煽った。6月15日には全学連ら7000人が国会突入を図り、女子大生死亡の惨事に至った。
◆学生死亡で論調一変
すると朝日はまた、豹変した。翌16日に論調を一変させ、「許せぬ国会乱入の暴力行動」と題する社説を載せ、在京各社に働き掛け、7日付に主要7紙の共同声明「暴力を排し、議会主義を守れ」を掲載し事態の収拾に回った。
当時、毎日の論説副主幹だった林三郎氏は「私のほうは、ああいう騒動を煽ったことはない。朝日は煽って、収拾がつかなくなってそういうこと(共同声明)を持ち出した…七社宣言でのめば、袋小路に追い詰められた朝日に優雅な逃げ道を与えるようなものだ」と述懐している。60年安保闘争はまさに朝日のマッチ・ポンプだった。
その朝日は今、何と言っているのか。19日付社説タイトルを見て驚いた。「安保改定60年 安定と価値の礎として」と持ち上げていたからだ。見事な豹変ぶりである。が、中身は支離滅裂だった。
「安保条約は前文に『民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配』の『擁護』を掲げる。こうした普遍的な価値を重んじ、国際規範に基づく秩序の形成に寄与することこそ、日本が進むべき道であり、それに資する安保でなければなるまい」と、実に立派な正論である。むろん異論はない。
◆中国との「共存」説く
ところが、舌の根の乾かぬうちに「日米安保を対立の枠組みにしてはならない。米中両大国が覇を争う時代は続くだろうが、中国の隣国でもある日本は、米中の共存を促すべきだ」と言ってのける。
普遍的な価値を軽んじ、国際規範に基づく秩序の形成に軍事力で挑んできているのは、ほかならない中国である。日本共産党も16年ぶりに党綱領を改定し、「(中国の)大国主義・覇権主義は、世界の平和と進歩への逆流となっている」と明記したではないか。これを阻止する日米安保は必然的に対立の枠組みとなる。自由・法の支配を擁護するなら、人権弾圧・一党独裁の共産中国と毅然(きぜん)と対峙(たいじ)するのが道理だからだ。
それを言わずに「共存」を説くとは。どんなに豹変しても朝日は信用ならない。60年経(た)ってもこの国に必要のない新聞である。
(増 記代司)