乱暴にも中絶と同性婚を同列に扱った日経連載「1964→2020」
◆問われる「命の尊厳」
東京五輪を控え、前回大会(1964年)当時と2020年の現在を比較する新聞記事が目に付く。55年の間に日本の社会が大きく様変わりしていることが分かって興味深いが、中には、真逆の問題をはらむテーマを、社会は変化するものだというだけで同列に扱った連載記事があった。
「日本経済新聞」は年末から、「2つの東京五輪の間で何が変わり、何が変わらなかったのか。私たちの社会の移ろいを見つめる」として、社会面で連載「1964→2020」を始めた。その第2回(12月30日付)の主題は「家族・命」だが、家族制度と命の尊厳という、次元の異なるテーマを「選択肢の多様化」というキーワードで一括(ひとくく)りにしたのはあまりに乱暴だった。
記事の問題提起は「時代とともに揺らぎ、ひとところにとどまらない家族のかたち」だったが、なぜか記事の前半で取り上げたのは「中絶」。11年前に、超音波検査で胎児の脳に異常が発見され中絶したが、今も「自分の選択」が正しかったのかと悩む当事者についての記事だ。
6年前には妊婦の血液でダウン症など胎児の染色体異常を調べる「新型出生前診断」が登場、中絶を助長すると論議を呼ぶ。一方、旧優生保護法下で優生手術(断種)が行われた時代があったが、その間違いに気付き反省したのが現代のはず。しかし、新型出生前診断にも優生思想の影がちらつく。
この問題の根底にあるのは「命の尊厳」。検査技術の進歩によって、胎児の異常を妊娠の早い段階で発見することができるようになった。社会がどう変わろうが、問われ続ける課題である。
◆深刻な子供への影響
記事の後半はなぜか「同性婚」に話が移る。5年前、東京・渋谷、世田谷両区が同性カップルの関係を「結婚に相当する関係」と認定するパートナーシップ制度を導入したのを皮切りに、同様の取り組みが各地に広がる時代の変化を説明しながら、子連れの女性と東京で生活する女性弁護士の苦悩を紹介した。
子供が通う幼稚園の職員や保護者など、弁護士の選択に対する理解は広がっても、最も身近な存在である実家の両親は認めない。同性愛者がカップルをつくることについては、他人なら認めることができても肉親には容認できない人は少なくない。
記事は、その理由を「恥ずかしいから」という一言だけで暗示したが、それだけではない。同性カップルの間で育つ子供への影響など、深刻な問題をはらむからだ。同性婚問題は「自分の道を自分の責任で選び取るのは、自由だがハードだ」と、記事が指摘するような「個人の選択」のレベルで済むようなテーマではない。
加えて、マスコミの画一化という問題もある。「社会全体が一方向を向いていた時代に比べ、価値観と選択肢が多様化した今」と、記事は過去55年間の社会の変化を指摘したが、「LGBT」(性的少数者)や同性婚に関する限り、大新聞・テレビの論調を見れば、反対意見を認めない「一方向性」を強めている。
同性婚は、第三者の精子を使った非配偶者間人工授精や代理出産まで容認することにつながり、「命の尊厳」を軽く考える風潮を助長する問題でもある。もし、中絶と同性婚を関連付けて記事を書くなら、軸に「選択肢の多様化」ではなく「命の尊厳」を置いて、読者に考えさせるべきだったろう。
◆利用される五輪憲章
パートナーシップ制度や同性婚の推進派がその主張を正当化する上で利用するのが五輪憲章だ。国際オリンピック委員会(IOC)は5年前、「オリンピック憲章」に「性的指向」による差別の禁止を加えた。
しかし、多くの国は同性愛者への対応をめぐり社会の分断にあえぐ。前回の東京五輪当時は考えられなかった、この問題に対し、わが国ならでの叡智(えいち)を発揮することができるのか。日経の連載にはそんな視点がほしかった。
(森田清策)










