カネばかりの陋習に陥り文明論的な視点が皆無の各紙の少子化論議
◆古代ギリシャと類似
「産めよ殖えよ地に満ちよ」。神は自らのかたちに似せて男と女とを創造され、彼らを祝福してこう言われたと旧約聖書の「創世記」にある。だから人類は元来、多産だった。その多産、いや出産そのものが揺らいでいる。
今年、国内で誕生した日本人の子供の数が明治期の統計開始以来、初めて90万人を割り込む見通しだという(各紙25日付)。超少産、超少子化である。
社説を見ると、「政府の危機感足りない」(東京25日付)と国を叱り、あるいは「想定以上の少子化を憂慮する」(読売26日付)と嘆き、はたまた「人口減に見合う豊かさ追求を」(産経27日付)と諦めムードを漂わせ、「重層的な少子化対策を」(朝日27日付)と促す。重層的な中身はと言えば、「子どものための政策にお金を使うことは、未来への投資である」(朝日)と、もっぱらカネの話である。
ひと昔前には文明論的なアプローチがあった。高齢化は近代文明の賜物で史上初めてのことだが、少産・少子化はかつて栄耀栄華を誇った国々にも見受けられるからだ。例えば、吉川洋・東大名誉教授は人口減が話題になると、いつも古代ギリシャの衰退を目撃した歴史家ポリュビオスの書き残した言葉を思い出すと述べておられる(日経2006年1月4日付)。
それによると、紀元前2世紀の半ばに生きたポリュビオスは、当時のギリシャで子供のない者が多く、人口が減少した原因は戦争でも疫病でもないとし、こう記している。
「人口減少のわけは人間が見栄を張り、貪欲と怠慢に陥った結果、結婚を欲せず、結婚しても生まれた子供を育てようとせず、子供を裕福にして残し、また放縦に育てるために、せいぜい一人か二人きり育てぬことにあり、この弊害は知らぬ間に増大したのである」(『村川堅太郎古代史論集Ⅰ』)
◆ローマは大胆な対策
古代ローマも同様だ。『ローマ人の物語』で知られる評論家の塩野七生さんによると、ポエニ戦争でカルタゴに勝った紀元前2世紀までローマ市民の女性は10人ぐらい産むのは珍しくなかったが、その後、だんだん子供をつくらなくなった。女性は地位や教育水準が高く、結婚しなかったり離婚したりしても不都合はほとんどなかったので、少子化現象が現れたという(日経05年1月1日付)。
だが、ローマはギリシャと違った。初代皇帝アウグストゥスが大胆な少子化対策を取ったからだ。未婚の女性に「独身税」を課し、能力が同じなら子供の多い男性を優先的に公職に採用し結婚と出産を奨励した。これによって超少子に陥ることなく、結果的にローマ帝国は300年以上も繁栄を続けた。実に文明の興亡は少子化への取り組みいかんに依(よ)ったのである。
とすれば、少子化論議に文明論的な視点が欠かせないはずだが、昨今の新聞はカネばかりの陋習(ろうしゅう)(いやしい習慣)に陥り、文明論的な視点が皆無に等しい。そればかりか左派紙は、本紙29日付社説が指摘するようにフェミニストやジェンダーフリー論者に同調し、政府の少子化対策や出産奨励論を「価値観の押し付け」「大きなお世話」「戦前の『産めよ増やせよ』を想像させる」と批判している。
◆宗教軽んじる左派紙
「産めよ殖えよ」は神の言である。これに異を唱えるのは、まさに亡国の音(おん)ではないか。そう言えば、ドイツの歴史哲学者シュペングラーが警鐘を鳴らしていた。文明の老衰期は魂の創造力が枯渇し、人々は無形式の「大衆」となり、衆愚的「デモクラシー」を志向し、「すべての文明は偉大な宗教とともに始まり、世界都市における唯物主義のフィナーレで終わる」と(『西洋の没落』)。
先の大嘗祭もそうであったが、左派紙は宗教を軽んじ、喧騒(けんそう)な唯物主義を奏でている。これを克服するには日本らしい憲法を創ることだ。令和2年は分水嶺(れい)に立つ。その思いを強くする年の暮れである。
(増 記代司)