若年層の読解力低下に警鐘鳴らす新潮だが解決策が読書のみで物足りず
◆崩壊する教育の基礎
大学入試での英語民間試験導入が延期された。生煮えの状態で投入してもいい結果が得られるわけがないから、この決断は妥当なものだ。それにしても教育界ではなぜか「英語、英語」と喧(やかま)しい。小中高校での英語教育は、大学入試の英語科目から逆算されるから、そこが変わらなければ児童生徒への英語教育は定まらない。どうもちぐはぐだ。
一方、先ごろ発表された国際学習到達度調査(PISA)の「読解力」で日本は“続落”して15位にまで下がった。英語どころの話ではない。「国語の危機」が叫ばれているのだ。
週刊新潮(12月19日号)が特集を載せた。「元凶は『文科省』と『SNS』!」との結論。異論はないが、SNSを必要以上にやり玉に挙げると、次世代とのコミュニケーションに何らかの“翻訳機”が必要になってくる。これは後述する。
さて、同誌は「読解力、それはすなわちすべての学びの基本にして土台」で、これの低下は「日本の教育の基礎が崩壊しつつある」ものだと警鐘を鳴らす。「大げさではなく『国難』と言えよう」とまで。
そして「読解力低下に歯止めをかけるには、何はともあれ活字離れを食い止める『国語教育』が必要」だと力説する。これも大いに共感する。だが、いくら力説しようが、崩れる土砂を素手で押しとどめようとするようなもので、蟷螂の斧にすらならない。それに「読書せよ」と強制することだけが解決策のような同誌の言い分は何とも物足りない。
そもそも読まない世代に読書を勧めるのは無理だ。さらに国語教育の必要性を説いても、今、小学校で教えている教師自身が“活字離れ”世代であり、国語教育の立て直しは現場でなく、教師養成の段階から手を入れなければ解決していかない。こうした実態にも目を向けるべきだろう。
◆土台は読み書き算盤
ただ同誌がまったく正しいことを言っているのは、優先しなければならないのは「学習の土台である『読み書き算盤』で、小学校ではこの基礎的な学習を中心にすべきです」と元国立市教育長で教育評論家の石井昌浩氏に語らせているところだ。すると、小学校からの英語教育も必要だろうが、もっと基礎的な「読み書き算盤」を徹底して行わせるような態勢に持っていくことが、ひいては「読解力」の回復につながり、その基礎の上で外国語習得もできる、ということだ。
きちんとした日本語ができて後、初めて外国語学習なのである。評論家の金美齢氏が、「外国語を操る能力は母語のそれに正比例します」と述べている。
なので「ほとんどお遊びのような内容」の小学校での英語教育もどんなものか。「英語(日本語)で英語を教える」式ではなく、むしろ「英語で算数を教える」式の方が使える英語になると思うのだが、現場の先生に提案しても「まず教師が…」と尻込む。
◆「良質な読書」が必要
SNSは読解力低下の元凶とされているが、コミュニケーションは変化していくものだ。短文に慣れた相手に長文読解を求めてはコミュニケーションは成り立たなくなる。どちらか一方の否定ではなく、バランスよく共存させることが必要だ。このままではデジタルデバイドと合わせて、世代間で対話が成り立たなくなる、という社会がくるかもしれない。「取説が読めない上司、起案書が書けない部下」など、既にフロアで断絶が起っている。
さて、最後に読書について、数学者でお茶の水女子大学名誉教授の藤原正彦氏は、「思考は語彙の周辺にしかない。言葉が貧しければ思考も貧しい」として、必要なのは「教養をもたらす本質的な意味での読書なのです」と同誌にコメントしている。良質な読書を維持していくのは出版界の使命でもあり、読者の役目でもある。そして、できれば、スマートフォンの中にも良質な読書空間があってほしい。
(岩崎 哲)





