「壁」崩壊30年、国際社会を分断する中国の「壁」に警告を発した産経
◆いまだ分断の後遺症
「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである」。東ベルリンにあるフンボルト大学の入り口正面の踊り場の壁に、かの有名なカール・マルクスの一文が金文字で鈍く光っていた。筆者が訪れたのは「ベルリンの壁」が崩壊する5年前の1984年のことだが、その時の印象が今も強く残っている。
西ベルリンと比較すれば、まず人の表情が違っていた。笑顔が絶えたような乾いた顔。何年も着古した服。飾り気のない街並み。がなり立てるように走る国民車「トラバント」。息苦しさが押し寄せてくる。東欧共産国で最も繁栄している都市・東ベルリンをしてこの惨状だった。
その東西を分け隔てていた壁が崩壊して11月9日で30年が経(た)った。本紙9日付社説によると、東西分断の後遺症がいまだに癒えていないという。東側の平均月給は西側の2割前後下回り、格差は縮まっておらず、職を求め、1990年以降120万人が西側に移ったとある。
さもありなんと思う。あの東ドイツがそうそう西と同レベルにはなれまい。手元の資料をめくってみると、壁崩壊から15年、つまり30年の折り返し点となる2005年にドイツ政府が作成した「フォン・ドナニー報告書」が目に留まった。
それを見ると、91年から13年間に1兆2500億ユーロ(約180兆円)という天文学的な資金を東ドイツ地域に投入したが、それでも格差は縮まらず、統一策は成功していないと告白している。
当時、こんなことが言われた。東ドイツ人は西ドイツ人を高飛車で貪欲、金しか知らない存在だと毛嫌いし、西ドイツ人は東ドイツ人のことを怠け者で仕事もろくにできず、西ドイツに頼ってばかりいて、独立性と自発性に欠けた人間たちとあざ笑っている。東西の亀裂は深まるばかりだ、と。
◆朝毎は「さまざまに解釈」
この言われようからすれば、05年からの15年、東側はよくやってきたと思う。格差はあっても亀裂とまでは表現されない。同年に東側出身のメルケル女史が首相に就き、指導力を発揮し東西融和に努めた。120万人が西側に移ったのは、それだけ移住・職業選択の自由がある証しだ。東側の人々は西側で働けるように努力した。
壁崩壊によって共産主義から人間の尊厳、自由、民主主義を取り戻したのだ。それを契機に国際共産主義の総本山・ソビエト連邦が解体され、東欧共産圏が解放され東西冷戦に終止符が打たれた。「肝心なのはそれを変えることである」を地でいった。
そんなふうに考えつつ各紙社説を読むと、どうもピンとこない。壁崩壊の意義から目を逸(そ)らすように「さまざまに解釈」しているだけだったからだ。例えば、毎日9日付社説「新たな分断生まぬ努力を」は、ハンガリーのオルバン首相をポピュリズム政治勢力としてヤリ玉に挙げ、朝日10日付社説「新たな『壁』を崩す時だ」は、「格差と憎悪という内なる『壁』と、一国主義という対外的な『壁』」という「新たな壁」を描き出す。
◆憲法解釈より改正を
だが、そんな「新たな」の以前に旧来の「壁」が国際社会を分断している。言わずと知れた中国共産党の「壁」だ。チベットやウイグルの人々の人権を蹂躙(じゅうりん)し、香港の自由を奪う「壁」だ。その「壁」を世界に広げようと「一路一帯」を唱え、南シナ海や西太平洋に「海の長城」を築こうと目論(もくろ)み、宇宙軍拡にも余念がない。
この「壁」に警告を発したのは産経1紙だけだったのは何ともお寒い。「『壁』崩壊から30年を経て、冷戦の前線は欧州からアジアに移った。日本は現実を直視し、自由と民主主義、法の支配を守り抜く決意を改めて固めるべきだ」(9日付主張)。まさに正論である。
それには憲法をどうするかだ。解釈はもういい。肝心なのはそれを変えることである。
(増 記代司)