小泉元首相の「原発ゼロ」発言を批判した読売は小泉氏の反論も掲載

◆有意義な双方の応酬

 新聞は報道においては、事実に基づく公正な記事を掲載し、論説においては社説を掲げ自社の主張を敢然と展開していく。論説では国論が分かれるテーマにおいては、政府・与党の政策などを支持することもあり、野党などに同調して政府批判を展開したりもする。それが言論であるが、いずれの立場に立つにせよ、その対極にある当事者や識者の反論も掲載して活発な議論の展開に資する度量を持つことが望ましいことは言うまでもない。

 だが、それは言うは易しで、実際はなかなか難しい。新聞も自社に合う識者などでオピニオン面を構成しがちだし、識者らもアウェー(のメディア)に求めてまで持論を展開するよりはホームの座敷に乗りがちだからである。開かれた議論の展開とはなかなかならないと言えよう。

 そうした眼で見ると、東日本大震災で自身の考えを変えたという小泉純一郎元首相が今月1日に名古屋市で講演した、原子力発電・エネルギー政策について「原発ゼロ」方針を政府に求める主張をめぐる小泉氏と読売(社説)の読売紙面上での双方主張の応酬は有意義なものであった。

 小泉氏は講演で「放射性廃棄物の最終処分のあてもなく、原発を進めるのは無責任」と断じ「原発に依存しない、自然を資源にした循環型社会」の実現を説き、政府に「原発ゼロ」方針を取るように求めた。

 読売・社説(10月8日付)は、これを「首相経験者として、見識を欠く発言である。原子力政策をこれ以上混乱させてはならない」と批判。自民党は原発再稼働の推進を選挙公約し、安倍晋三首相も「安全性が確認された原発は再稼働させ、民主党政権の『原発ゼロ』路線を見直す意向だ」から、政府・与党の方針と異なる小泉発言は「政界を引退したとはいえ、看過できない」とした。

◆政治の怠慢問う社説

 また、小泉氏の原発の代替案が「知恵ある人が必ず出してくれる」だけでは「あまりに楽観的であり、無責任に過ぎよう」とあきれるのである。「あてもない」とする核のごみ処分場についても、技術的に決着していて日本を含め各国が採用を決めている方法があり「問題は、廃棄物を埋める最終処分場を確保できないことだ」と指摘。その政治の怠慢の一因は「首相だった小泉氏にも責任の一端があろう」と迫り「処分場選定を巡る議論を進めるべき」だと結んでいる。

 小泉氏の反論は読売19日付オピニオン面(12面)の「論点」で掲載された。「原発ゼロ」を打ち出せば「原発に依存しない、自然を資源にした『循環型社会』の実現へ、国民が結束できるのではないか」と言う小泉氏は「楽観的で無責任」とした批判に、「政治で大切なことは、目標として大きな方向を打ち出すことだ」と、まず“先見の明”の必要を主張。そうすれば、「原発ゼロ」に賛同する識者や専門家の英知を集め、さまざまな(解決)案が出てくるとしたのだ。

 天候に左右される太陽光など再生可能エネルギーの弱点には、蓄電技術開発の進化を挙げるなどし、改めて「核のごみの処分場のあてもないのに、原発政策を進めることこそ『不見識』だ」と持論を展開。その上で日本が「鎖国」から「開国」へ、「鬼畜米英」から「親米英」へ、「石油パニック」から「環境先進国」へと、ピンチをチャンスに大転換して乗り越え発展してきたことを説く。そして反論は「挑戦する意欲を持ち、原発ゼロの循環型社会を目指して努力を続けたい」と結んだのである。

◆楽観的過ぎる小泉氏

 小泉氏の言う「目標として大きな方向を打ち出すこと」が政治において大切なことは分かるが、「原発ゼロ」を打ち出せ、との主張は裏付けが乏しい。抽象的で、経済活動や国民生活の現状からあまりに懸け離れ過ぎていると思う。

 そのあたりを小泉氏の反論に併載された遠藤弦論説委員の再反論「小泉氏は楽観的過ぎないか」が、問題ごとに数字を挙げて具体的な指摘をしていることに得心がいく。核のごみ処分場については「『(候補地の)メドが付かない』というのではなく、『メドを付ける』のが政治の責任」だと切り返したのもうなずける。

 なお、この問題では毎日・社説(5日付)は、小泉氏のゼロ論を「核心をついた指摘」「議論にはもっともな点がある」と評価し、さらなる議論、反論の展開を促している。

(堀本和博)