「令和」に厳しく「主体」に甘い?


韓国から

 来月1日から施行される新元号「令和」。こちらでもその発表を受け報道各社がこぞって記事に取り上げるなど高い関心を寄せているが、韓国に厳しいと紹介されることが多い「アベ」政権や、かつて朝鮮半島統治に関わったとして想起される「日王」(=天皇の韓国式呼称)に絡めた懐疑的な論評が多い。残念ながら日本人の元号に対する深い心情に踏み込んだ分析にはまだお目にかかれずにいる。

 「令和」の意味についても、安倍首相は「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と説明したが、韓国の某大手誌は「令には命令の意あり、和は日本自体を象徴し戦争があった昭和の和としても使われた」。「日本らしさを命じる、昭和時代への回帰を命じるという意にも解釈できる」ので「不満がないわけではない」とも。どうあっても日本の“加害責任”がまず頭に浮かんでくるとみえる。

 であるならば、同民族でありながら奇襲進攻して戦争を起こし多くの犠牲者を出した北朝鮮が誇る独自の暦にこそ違和感を抱き、加害責任を問うべきだが、そういう声は聞かれない。

 北朝鮮は金氏世襲の初代である金日成主席が生まれた1912年を元年とする「主体」という暦をその死後3年を経て使い始め、子の金正日氏、孫の金正恩氏に後継されても当然、改元のようなものはない。

 日本のように改元で過去を顧みつつ新しい未来に希望を抱く節目を刻むこともなく、北朝鮮住民はひたすら「主体」期の独裁に苛まれるしかない。

(U)