コール元独首相の淋しい隠居生活


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3日に85歳を迎えたヘルムート・コール元独首相(ウィキぺディアから)

 忘れられてしまった感はあるが、忘れ去るには余りにも大きな存在だった。東西両ドイツの再統一の立役者ヘルムート・コール氏のことだ。同氏は3日、85歳を迎えた。同氏は連邦首相として1982年から98年まで16年間、戦後最長在任記録を立てた。90年10月には東西両ドイツの再統一を実現させた歴史的な政治家だ。そのコール氏の話は政界引退後は余り聞かなくなった。

 3日が「聖金曜日」でイエスの磔刑の日に当たり、ローマ・カトリック教会では「受難日」「受苦日」と呼ばれている日だ。同日に誕生祝賀会を開催するのは不都合という判断から、コール氏が所属していた与党「キリスト教民主同盟」(CDU)は、シンポジウムを後日開催し、コール氏の85歳を祝う予定だ。

 独週刊誌シュピーゲル電子版によると、ラインランド=プファルツ州(ドイツ南西部)のCDUはコール氏の功績を称え、州都マインツの州党本部をコール氏の名前で呼ぶことを決定している。コール氏は連邦首相に就任する前、1969年から76年まで同州首相だった。

 コール氏の政治家としての最大業績はやはり東西両ドイツの再統一だ。ナチス・ドイツ軍の蛮行に苦しめられてきた欧州諸国では当時、東西両ドイツの再統一については警戒心が強かった。コール氏はフランスのフランソワ・ミッテラン大統領(1981~95年)と個人的な信頼関係を築き、統一ドイツが欧州連合の一員として貢献していく点を強調、欧米諸国の信頼を勝ち得て再統合を実現させていったわけだ。
 ちなみに、ミッテラン大統領が死去した時(1996年1月)、パリで開かれた追悼ミサに参加したコール氏が男泣きをした話は有名だ。大男のコール氏の涙ぐむ姿は、同氏がミッテラン大統領と単なる政治的駆け引きの付き合いというより、人間同士として付き合ってきたことを物語っていた。

 コール氏はドイツの再統一を成し遂げたが、1998年の連邦議会選挙で大敗して16年間の政権を失った。その後、1999年には不正な党献金問題が発覚して、政治家としての名誉は地に落ち、政界の表舞台から姿を消していった。特に、愛妻のハンネローレ夫人が難病の太陽アレルギーに苦しみ、自殺した後、コール氏の人生は急速に後ろ向きになっていった。メディアとの交流はなくなり、信頼できる数人の家族と友人だけに取り囲まれた隠居生活に入っていった。ヘルムート・シュミット氏(1974~82年)やゲアハルト・シュレーダー氏(1998~2005年)が政界引退後もそれなりに活躍しているのと比較すると、コール氏の晩年は淋しすぎるほどだ。

 ちなみに、コール氏の功績は統一ドイツの実現のほか、アンゲラ・メルケル首相を発掘し、政権内に抜擢したことだろう。メルケル首相は第4次コール政権の女性・青少年問題相に、第5次コール政権では環境・自然保護・原発保安担当大臣に抜擢されている。ドイツ歴史上初の女性首相となったメルケル氏は当時は“コールのお嬢さん”と呼ばれていた。

 不正党献金問題でコール氏を批判したメルケル首相は一時期、コール氏と不仲になったといわれているが、両者の師弟関係は後日、修復された。いずれにしても、旧東独出身のメルケル首相を抜擢したコール氏の政治家としての目は確かだったわけだ。

(ウィーン在住)