児童虐待事件で児相と警察の主張の食い違いを突き詰めて報じぬ文春

◆公的機関に批判集中

 また幼い命が失われた。札幌で2歳の女児が衰弱して亡くなった。虐待を受けた跡があった。こうしたとき、必ず出てくるのは「児相(児童相談所)は何をやっていた」「警察は対応したのか」という公的機関への批判と怒りである。

 週刊文春(6月20日号)が伝えている。何度も尋常でない子供の泣き叫ぶ声を聞き、周辺住民が児相や警察に通報した。児相や警察は動いたのだが、ここから両者の主張が真っ向から食い違っている。同誌は「社会部デスク」の話を引用して、双方の主張の違いを説明した。

 児相側は、訪問に同行しなかったのは、警察から「母親の機嫌を損ねる恐れがある。同行は遠慮してほしい」と言われたからで、また警察が虐待と疑う状況はないと伝えたので、児相は虐待なしと判断した、ということだ。

 しかし、警察はこの児相の説明に「激怒」したという。「同行を求めた」が児相の人的都合がつかず単独面会し、その結果、虐待を想定した強制的な立ち入り検査を提案した、というのだ。

 同誌はこれを「いずれにせよ、連携の不備から見えてくるのは」と受けている。「連携の不備」と言うだけで、これだけ食い違う両者の主張のうちどちらが正しいことを言っているのかは示さず、「見えてくるのは児相の危機感のなさだ」と話を進めてしまう。つまり、児相、警察どちらの主張が正しいかよりも、ともかく児相が“ボーっとしている”という話に持っていきたそうなのである。

 結果から見れば、そういうことになるだろう。同誌は札幌児相の高橋誠所長を直撃した。「なにも抗弁できません。(批判は)甘んじざるを得ません」と語るのみ。この言葉の裏に何があるのか、記者はさらに深く問おうとはしなかったのだろうか。

◆児相叩きで解決せず

 一般的に言って、児相が抱える案件は多い。職員一人で数件を同時並行的に担当している。職員は心を砕き、相手に寄り添って話を聞き、親身に相談に乗り、当該児を救おうとする。しかし、大概の場合は、相手の親は協力的ではない。不都合な事柄だから、隠し、偽り、騙(だま)す。罵倒も当たり前に受ける。ときには身体的抵抗で児相職員が負傷することもある。そして、何よりも心が重い。1件でもそうなのに、これを複数件抱えているのである。普通にできる仕事ではない。扱っているのは社会の負の部分だけに、職員自身が心理的サポートを必要とする場合も珍しくない。

 事件が起きると児相への批判ばかりで、普段、児相がどれほど負担の大きな仕事をしているかは顧みられないし、なぜ、虐待が繰り返し起こるのかの根本問題に目を向ける報道も少ない。児相を叩(たた)いておけば済む問題ではないのに、である。

 幼児を殺したのは大人だ。なのに「殺人犯」よりも、少なくともそれを防ごうとしていた人間がどうして罵倒されなければならないのか。家族兄弟はどうしていたのか、親戚は知っていたのか、問うべき相手は公的機関の前にもっといる。この手の事件が起こるたびに感じる理不尽さだ。

◆必要な「オトナ」ケア

 児童福祉は詰まるところ「オトナ福祉」なのである。いくら児童に手をかけても、その親や家庭の環境が改善されなければ、根本的な解決にはならない。つまり、まずもってケアされるべきは「オトナ」なのである。結局、この母親も交際相手の男性も、同誌が取材した生い立ちを見れば、問題のある家庭環境に育った。負の連鎖なのだ。

 最近は人の腰回りのサイズまで測って役所が住民の健康管理を行う。将来の医療費支出を抑えるための予防策だ。つまり健康であれば、医療費が抑えられるのだ。この理屈を援用すれば、家庭づくり、家族づくりが真剣に問われてもいいのではないか。結婚観、家族観はそれぞれ違うだろうが、将来の不幸を生まない「健全な家庭」建設に役所も民間も取り組む必要がある。

(岩崎 哲)