大嘗祭国費支出に反対し宗教狩りのように完全政教分離を主張する朝・東

◆一度もない違憲判決

 来年の大嘗祭(だいじょうさい)への公費支出をめぐって秋篠宮殿下が「宗教色が強い大嘗祭を国費で賄うことが適当かどうか」と述べられ、国家と宗教の関わりについて論議を呼んでいる。

 各紙社説を見ると、朝日と東京は憲法の政教分離上の問題点を指摘し、国費支出に否定的(いずれも1日付)。これに対して産経(1日付)と本紙(4日付)、読売(5日付)は肯定的だ。論調はリベラルと保守で分かれた。ちなみに毎日は皇室像を問うている。

 東京はこう言う。「国費投入は政教分離を定めた憲法に反しはしないか…。確かに一九九五年の大阪高裁は原告の訴えを棄却したものの、『政教分離規定違反の疑いを一概に否定できない』と指摘した」

 まるで違憲だと言わんばかりだが、そう書くなら高裁判決をつまみ食いせず、合憲とした最高裁の判断も明記しておくべきだ。

 朝日は「政教分離を定めた憲法と大嘗祭との関係は、平成への代替わりの際も論議になった。『知事らが公費を使って大嘗祭に参列したのは儀礼の範囲内で違憲ではない』とする最高裁判決はあるが、国が大嘗祭に関与することや費用支出の合憲性についての判断は示されていない」と書く。

 これも奇弁だ。平成の大嘗祭をめぐって各地で違憲訴訟が起こされたが、違憲判決は一つもない。違憲でない限り合憲と考えるのが筋だ。

 リベラル紙は異様なまで政教分離にこだわる。だが、憲法7条は天皇の国事行為として「儀式を行うこと」を挙げている。儀式には「朝廷で行う公事・祭事の礼式作法」(大辞林第三版)が含まれると考えるのが常識的だろう。

◆目的は信教の自由に

 大嘗祭は天皇が即位後初めて行う新嘗祭(にいなめさい)のことだ。その年の新穀を天照大御神(あまてらすおおみかみ)や天神地祇(てんじんちぎ)に供えられ、国家国民の安寧と五穀豊穣(ほうじょう)を祈られる、即位の中心的な祭祀(さいし)だ。これが儀式でなくて何なのか。

 天皇が成される儀式が神道儀式なのは論を待たない。大嘗祭だけでなく、皇太子殿下の結婚の儀も、三種の神器、宮中三殿もしかり。これらはわが国の歴史的伝統だ。

 そもそも伝統儀式はその国の宗教的・文化的背景を抜きにあり得ない。米大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓するのは、巡礼始祖(ピルグリム・ファーザーズ)の「メイフラワー誓約」に由来する。イギリス国王は16世紀に設立された英国国教会の首長(信仰の擁護者)で、戴冠式などの王室行事はウェストミンスター寺院で執り行われる。だからといって政教分離に反するとか、信教の自由を侵害するといった批判はない。

 わが国の憲法20条は「信教の自由は、何人に対しても保障する」とし、国や自治体は特定の宗教団体に特別の利益や権利を与えてはならないとするが、これはあくまでも信教の自由が目的で政教の完全分離を目指すものではない。

 実際、三重県津市の地鎮祭をめぐる違憲訴訟で最高裁は「社会事象としての広がりを持つ宗教と国家や公共団体は完全に無縁でありえない」とし、「特定の宗教を助長し他の宗教を圧迫する効果を持つと認められる活動でなければ『宗教的活動』に当たらない」として合憲判断を示している(1977年7月)。

◆宗教を憎む共産主義

 天皇家は宗教団体でないし、大嘗祭などの儀式によって他の宗教を圧迫することもない。それにもかかわらず、朝日や東京などの左派紙はまるで宗教狩りのように政教の完全分離を主張する。

 それで英国の政治学者E・H・カーの言を思い出した。「マルクス主義は、1840年代の初めにその創始者によって採られた立場から、永久に後退しなかった。それはつねに、宗教論争をその本質的な仕事の一つとみなしてきたことである」(『カール・マルクス』未来社)

 マルクスは「すべての神々を憎悪する」と述べ「宗教はアヘン」と断じた。それほど共産主義は宗教を敵視した。わが国では軍国化を招いた国家神道の元凶として天皇制を標的にし、共産党は終戦直後、いち早く天皇制廃止の「日本人民共和国憲法草案」(1946年)を発表した。進歩的文化人の政治学者、丸山真男も「天皇制を廃し、共和制にすること」(『憲法改正意見』49年)と主張した。

 朝日と東京はその申し子なのだろうか。

(増 記代司)