「死」をタブー視せず延命治療の是非を家族で話し合う必要伝えたNスペ
◆増え続ける死亡者数
昨年は1年間に134万人が亡くなった。年間の死亡者数で、戦後最低だったのは1966(昭和41)年の約67万人。つまり、昨年はそのちょうど倍の人が鬼籍に入ったわけだ。しかも、この数はあと20年は増え続ける。
超高齢社会で、亡くなる人が多くなるのは当然とも言える。しかし、そこに医療技術の高度化が重なる現在、われわれ一人ひとりが元気なうちに、終末期にどのような医療を選択するかをしっかり考えておかないと、機械に生かされて尊厳ある死を迎えることができなくなる事態になっている。
「死」をタブー視する風潮の中で、「どう死を迎えるかなんて、考えたこともない」という日本人の目を覚まさせる番組があった。「NHKスペシャル」の2夜連続シリーズ「人生100年時代を生きる」(11月17、18日放送)は、元気なうちから死に向き合って、延命治療を受けるかなど、終末期医療について家族で話し合っておくことの重要性を伝えた公共放送ならではの番組だった。
1回目は「終(つい)の住処(すみか)はどこに」、2回目は「命の終わりと向き合うとき」と題して、3年前に父親を看取(みと)り、今も母親の介護を続ける作家の阿川佐和子をゲストに迎えて放送した。
前者は、85歳以上の高齢者の半数が認知症を患う中、国が軽度の要介護者の受け皿として整備を進める民間の「サービス付き高齢者向け住宅」(サ高住)が直面する苦境を追った。現在の制度では、認知症を患っていても体が動くと、事業者が受け取る介護報酬は少ない。その一方で、そのような高齢者を受け入れると、徘徊(はいかい)などがあるので人手がより必要になる。この矛盾から、サ高住では事故が多発し、死亡事故も起きており、そのあおりを受けて退去を求められる認知症患者も出ているという。
◆不可避の終末期医療
終の住処をどこにするかも、元気なうちに考えておく必要があるが、深く考えさせられたのは後者だ。終末期医療は誰もが避けては通れない問題だからだ。
社会保障費の抑制を迫られる国は、終末期医療の軸を「病院」から「自宅」へと移している。ほとんどの人は住み慣れた自宅で最期を迎えたいと望んでいるのだから、国の方針転換はそれを実現させることになるから本来歓迎すべきだろう。ところが、現実は終末期を迎えているのに、意識のないまま、胃瘻(いろう)や人工呼吸器などの延命装置によって生かされている高齢者が増えている。
家族が自宅で自然に息を引き取るのを看取ろうと思っていても、いざ呼吸が弱くなると、どうしていいか分からずに救急車を呼んでしまう。運ばれた救急救命センターでは、医師の使命感から、たとえ終末期患者であっても人工呼吸器などで命を取り止める努力をする。
そうした高齢者は結局、意識が戻らないまま延命装置で生かされることになる。番組では6年もその状態のケースを紹介したが、一度心肺停止になると、人工呼吸器などが外れて退院できる確率は0・5%にすぎないという。現在は一度付けた延命装置を外すこともできるが、延命についての患者本人の考え方が分からないと、家族は決断できない。
◆高齢者の透析も問題
高齢者に対する高度医療のもう一つの問題に透析がある。高齢者でも透析を受けられるようになった現在、80歳以上で透析を受ける人は6万人。統計を取り始めた1982年に比べ300倍という。
だが、高齢者の場合、治療の途中で認知症を発症し、患者の希望を確認できないまま透析が続くケースが珍しくない。1日4時間、週3回。「透析を続けるために、生かされているような状況になっている」と語る関係者の言葉は、延命装置で生かされる高齢者と同様、医療のジレンマを伝えていた。
番組の最後に、阿川がこんなことを言った。「今の時代、医学が進歩して人間がどんどん寿命が長くなると、自分で死を決断しなければいけない時代が来たということですかね」
延命治療を受けるかどうかなど、患者本人の意思が明確なら、家族は選択しやすくなるだろう。終末期にある高齢者の延命治療や透析が国の医療費高騰につながっている問題にも触れるべきだったが、視聴者に考えさせる公共放送らしい番組だった。(敬称略)
(森田清策)