現代医療に対し「祈り」の効用や高額医療の弊を鋭く指摘する記事2題
◆『祈る心は、治る力』
週刊誌の読者層が高年齢化し、健康・医療をテーマにした記事が毎号のように載っている。その中で現代医療の在り方について物申した二つの記事に注目したい。一つは「帯津良一の『健脳』養生法-死ぬまでボケない 連載26 祈ることの効果」(週刊朝日11月16日号)。
帯津氏はまず「『祈り』を医療の中でどう位置づけるかというのは、実は大事なテーマ」として、<祈りの力が、よみがえりつつある。……20世紀の大半にわたって隅に追いやられた後、今や現代医学において、祈りは、ステージの中央にその場所を移しつつある>という言葉を、米国の医師・ラリー・ドッシー著『祈る心は、治る力』(日本教文社)から引用している。
帯津氏の知るある患者は、行く先々で神社仏閣があると必ずお参りし祈っていた。それと並行し抗がん剤による化学療法をした後に食事療法をはじめとする代替療法も実践し、急性骨髄性白血病を克服したという。
記事では、「(祈りが)免疫力を高める遺伝子のスイッチを入れていると推測される」という分子生物学者・村上和雄さんの祈りと治癒関係の研究も紹介している。「祈り」は免疫力を強化する力を持つのである。
実際、体内に入ったウイルスや細菌、異物などから自分自身の体を守る「免疫力」は各自に備わっており、その強化を促す治療法は、現代医療の大きな武器となっている。
◆『至高の存在』に同調
祈りについて帯津氏は「必ずしも宗教的な祈りではなくてもいいのです。いわば『至高の存在』に対して波長を合わせ、身をゆだねるような感覚』を持つ。それをドッシー博士は『祈りに満ちた心』だといいます」と、その説明と祈りの手ほどきも。
治療技術が高度化し、万病が科学的に区分され、薬剤調合がほぼマニュアル化している現代医療で、患者の「祈り」というアクションの、治療における位置付けははっきりしていない。そんな中、<現代医学において、祈りは、ステージの中央にその場所を移しつつある>という指摘は十分刺激的だ。
同氏は、帯津三敬病院名誉院長。西洋医学だけでなく、さまざまな療法で癌(がん)に立ち向かい、人間をまるごと捉えるホリスティック医学を提唱している。
もう一つの記事は「医の中の蛙 連載62 今こそメメント・モリ」(週刊新潮10月18日号)で、筆者は医師の里見清一氏。10月初旬、ノーベル医学生理学賞授賞が決まった本庶佑氏の話題から話を立ち上げ、氏のこれまでの業績を縷々(るる)紹介している。
その一方で、高額医療化していく現代医療の弊を説く。「国民皆保険制度はまだ健在で、医者も患者も、『コストを気にせず、どんな薬でも使える』」という「環境に慣れきっ」ている。特に、医者の立場に疑問符を呈し、経口の抗癌剤を減量したりする研究に積極的でないという例を出している。
患者側に対して「癌を治して長生きをする。それは良いことなのだろうが、手放しで素晴らしいと言えるのだろうか。我々はそのプロセスの『癌を治す』にのみ目を奪われて、何のために長生きをするのか、長生きした結果はどうなのか、をあまり考えてはいないのではないか」と手厳しい。
「本庶先生たちの努力で癌の克服に曙光が見えてきた今こそ、我々はその先にある死を真剣に考えるべきではないのか」つまり「メメント・モリ(死を思え)」と展開している。
◆コスト度外視は疑問
その上で「貧乏人も年寄りも、誰もの命が『地球より重い』のだからコストを度外視して永らえさせる、という現在の大方針は、とりもなおさず、借金に借金を重ねて次の世代を犠牲にし、我々の子供たちを棄てていることと同じではないのか。そこまでして『人生100年時代』を『謳歌』しようとは、私は思わない」と言い切っている。
里見氏も先の帯津氏も現役の医者であり、医療周辺のことは何事もよく見える立場。現代医療の在り方に鋭く斬り込み批判や代案を示して説得力がある。
いずれも連載コラム記事だが、当該週刊誌の編集部は、一過性の話題とせず、敷衍(ふえん)してニュース記事として展開していくことをぜひ願いたい。
(片上晴彦)





