財務次官セクハラ疑惑で身内の話には口を閉ざし自己保身に走る朝日

◆解せぬテレ朝の対応

 「官庁の中の官庁」とされる財務省の福田淳一事務次官のセクハラ、左派勢力が反原発のホープとして担ぐ米山隆一新潟県知事の“買春”。国と地方、それも保守と革新のエリート2人が不祥事で辞任した。この国の性倫理はどこに行ってしまったのか。

 こんなときこそ、皮肉を込めた社会風刺で知られる朝日夕刊コラム「素粒子」を読まねばなるまい。

 「事務次官のセクハラ被害者に『名乗り出よ』という財務省。誰もいなければ、疑惑もなかったと言うつもりだな」(17日付)

 「新潟県知事が出会い系サイトの女性たちに金を渡していた。『好かれるためだった』って、なんじゃらほい」(18日付)

 なるほど、と感心する。財務省の「名乗り出よ」には呆れ、新潟県知事の発言にはなんじゃらほい、何のことかと首を傾げる。が、セクハラ被害者とされる女性記者の所属会社が名乗り出ると、それが同グループのテレビ朝日だったからか、「素粒子」は黙ってしまった。格好のネタなのに先週、取り上げていない。

 財務省もさることながら、テレ朝も解せない。セクハラを報じた週刊新潮の暴露記事がなければ、なかったと言うつもりだな、としか思えない態度だ。記者は1年半も前からセクハラ発言を受け、上司に相談したが、「報道は難しい」と黙殺された。財務省に抗議したり、記者を交代させたりするなど手だてがあったはずだが、それもせず、局内に相談先もなかった。

◆人権配慮の視点欠く

 テレ朝の報道局長が記者会見したのは19日未明。ライバル読売は19日付朝刊1面に「テレ朝『セクハラは事実』 記者、週刊誌に録音提供 報道局長会見」、社会面に「テレ朝『録音提供 不適切』 セクハラ訴え上司放置」とテレ朝の対応に焦点を当てて報じた。未明にもかかわらず、識者のコメントを取る力の入れようだ。翌20日付には「問われる人権配慮と報道倫理」との社説も掲げた。

 朝日は歯切れが悪い。19日付1面で報じたが、目を凝らさないと見過ごしてしまう2段見出しで「『セクハラ被害、事実』 テレ朝会見 財務省に抗議へ」と局側の非に触れない。社会面も目立たぬ3段見出しで「テレ朝会見『社員、身を守るため録音』」と、もっぱらテレ朝擁護、まるで御用記者の記事だ。社説も沈黙している(23日付現在)。

 今回のセクハラは氷山の一角らしい。毎日によると、東京都内で開かれた新聞労連の全国女性集会で、参加者から「セクハラは日常的で感覚がまひしていた」「記者として認められなければというプレッシャーがある。セクハラも業務の一環とすら思いこんでいた」など被害の報告が相次いだという(22日付)。

 セクハラも業務の一環とは恐れ入った。こんな“告白”に触れると、確かに感覚がマヒしている。テレ朝の女性記者に「勇気ある行動。感謝したい」とのエールが相次いだそうだが、こういう感覚も理解し難い。新聞労連に関わる女性記者には読売が指摘した「人権配慮と報道倫理」の視点が欠けている。

◆道徳教科化には反対

 こういうときこそ、見解を聞かねばならない人がもう一人いる。朝日のベテラン女性記者、高橋純子氏(編集委員)だ。政治次長時代に「政治断簡」と題するコラムで、「だまってトイレをつまらせろ」(2016年2月28日付)「私にもスケベ心はありますが」(17年3月19日付)といった挑発的なタイトルで皮肉を込めて世相を論じていた。少なくとも御用記者ではあるまい。「素粒子」は沈黙しているが、高橋氏はどうか。

 朝日は身内の話になると、途端に口を閉ざし自己保身に走る傾向がある。例えば、裁量労働制だ。朝日も採用しているから自らの労働実態を示せと本欄で書いたが(3月13日付)、社会活動家の湯浅誠氏も語らぬ朝日を批判し、朝日は今、「ともに考え、ともにつくるメディア」をうたっているが、「自己開示しない人たちと『ともに』考えることは難しい」と引導を渡している(朝日17日付「パブリックエディターから」)

 セクハラ問題はどうか。何せ道徳の教科化に反対する朝日のことだ(8日付社説)。なんじゃらほい、になりはしないか。

(増 記代司)