「生殖補助」の進歩 「命の操作」にブレーキ必要

人格形成で困難に直面する子供

 米国では、大統領選挙になると、毎回、人工妊娠中絶の是非をめぐる論議が活発となる。「プロライフ」(生命尊重派)と「プロチョイス」(女性の選択権派)による長年の論争が4年に1度、さらに精鋭化するのである。

 ワシントン特派員時代、私は中絶クリニックをピケで封鎖するなど、時に実力行使も辞さないプロライフの活動に驚きながらも、中絶の是非がほとんど政治問題化することのないわが国と違い、この問題が大統領選挙の争点になるお国柄を新鮮に感じたものだ。

 今回の大統領選挙では、不法移民の防止策や環太平洋連携協定(TPP)の賛否などに加え、共和、民主両党の内部分裂に関心が集まってあまり注目されないが、中絶をはじめとした生命倫理に対する有権者の関心が、日本と比べて格段に高いのはいつもと同じである。

 超高齢社会に突入したわが国の論壇では、「Voice」8月号の特集「人生後半を生きる技術」のように、高齢者を対象にした企画が多くなっている。特に目立つのは「死」をテーマにした企画が増えていることだ。

 例えば、「新潮45」8月号は、特集「死ぬための生き方」を組み、識者の死生観が投影された論考を掲載している。命と同じように、死も人間にとって根源的なテーマだが、日本では、米国のように「生命はいつ始まるか」というようなテーマがあまり論じられないのは、キリスト教の影響が少ないからだろう。カトリックが中絶を禁じるのは、人の命は受精の瞬間に始まる、と考えているからだ。

 宗教的な観点からではないが、日本の言論人や医療関係者も「命の尊厳」に向き合うべき時に来ていることを示唆した論考が「潮」8月号に載った。医師で作家の鎌田實の論考「『生殖補助医療』で生まれてきたいのち。」だ。

 「僕はずっといのちのことを考えてきた」「生命ってなんだろう、そんな根源的な問いを自らに投げかけてきた」という鎌田には、その問いをより深めるきっかけがあったという。新聞記事で「AID」つまり匿名の第三者の精子を使って人工授精する「非配偶者間人工授精」で生まれた人の声を知ったことだ。

 不妊の原因が夫にある場合に行われるAIDは、わが国では1948年、慶應大学医学部で始まった。翌年に最初の子供が生まれた。これがもう70年近くも行われているのだ。精子の提供者は医学部の学生など医療関係者がほとんどで、生まれた子供は法律上、夫婦の実子となっている。ことの性質上、これまでにAIDで何人生まれたかという統計はないが、1万人とも2万人とも言われる。

 不妊に悩む夫婦にとって、AIDを始めた医師は“救い主”のように思えたかもしれない。医師側も子供の欲しい夫婦を助けるという責務から、生殖医療に取り組んでいることは疑うべくもない。そして、生まれた子供たちの中には一生、出生の秘密を知らずに幸せな人生を送ったケースは少なくないのだろう。

 だが、最近、さまざまな理由から、自分がAIDで生まれたことを知り、アイデンティティーの喪失という深刻な苦悩を背負う人たちが存在することが知られるようになった。そうした人たちの悲痛な声を集めた本『AIDで生まれるということ』(非配偶者間人工授精で生まれた人の自助グループ・長沖暁子編著)が出版されたこともあって、出自を知る権利に関心が高まるとともに、AIDに頼る夫婦の願いや、医師の使命感にエゴがあるのではないか、との疑問の声も出始めている。鎌田もこの本を読み、ラジオ番組を通じて、当事者に直接話を聞いたという。

 鎌田の論考で、特に私が注目したのは、慶應大学医学部名誉教授で、日本産科婦人科学会の理事長を務めた経歴を持つ生殖医療の権威、吉村泰典にインタビューし、貴重なコメントを引き出したことだ。吉村は自身の著書で、かつてはAIDで生まれた子供に、精子提供者について知らせない立場を取ってきたが、考えが変わってきたことを明らかにしている。

 その理由はAIDで生まれたことを知った時の「アイデンティティー・クライシス」と、親子関係の崩壊という当事者たちの苦悩を知ったからだった。人がアイデンティティーを確立する上で、血のつながった父親が誰であるのかを知ることがどれほど重要であるかを、彼らは身をもって示している。

 この問題のほかに、吉村はもう一つ、自身が考えを変えるに至った重要な事実を、鎌田に提示している。

 通常の妊娠では、流産する割合は13~14%だ。しかし、体外受精や顕微授精(体外受精は自然な授精を待つ。顕微授精は、授精が困難な場合、顕微鏡を使って人為的に行う)では、流産率は20~25%になる。生殖医療がどれほど進歩しても、なぜかこの数字になるのだという。

 「この一〇㌫の差は何なのか。人工的な操作はやはり問題点を含んでいるんです」と吉村。そして「神様は笑っているかもしれないですね」「私は四〇年やってきたけれど、いまはこの生殖医療というのは本当に進歩してよかったのかな、という気持ちがあります」と、率直に語っている。

 「吉村先生の勇気ある誠実な言葉をうかがって、僕は感服(かんぷく)した」という鎌田と、私も全く同感である。生殖補助医療の進歩というのは、命の操作につながる“禁断の技術”の高度化であり、今後はAIDのほかに「代理出産」や出生前診断による「命の選択」など生命倫理上、深刻な事態を招く恐れがある。

 その一方で、超高齢社会の到来によって、国の介護・医療費用が急増し、社会保障制度の崩壊という危機的状況に直面するに伴い、高齢者への医療費投入の抑制という課題が浮上してきた。これは、医療行為の中止という生命倫理上の問題につながる。そんな現実を見るにつけ、今はこれまでは前のめりになっていた姿勢を見詰めなおして、「命とは何か」という根源的なテーマを一人ひとりが考えるべき時であろう、との思いを強くするのである。

 ワシントン特派員時代を振り返った時、プロライフとプロチョイスの激しい論争のほか、もう一つ、印象に残っている光景がある。スミソニアン博物館を見学していた時、10人以上の子供を連れた夫婦がいた。子供の1人に「みんな兄弟なのか」と声を掛けたら、血のつながった兄弟のほかに、養子縁組した子供が何人もいるから、大家族なのだという。

 米国では、貧困などさまざまな理由で実の親が育てられない子供を養子にして育てる家庭が非常に多いのは、キリスト教の影響である。

 両親の事情から、養父母の元で育った鎌田は「親子の血がつながっていないことが不幸を招くのではない」と言っている。親子関係で、血のつながりを求めるのは自然なことだが、血のつながりが全てではない。

 私の祖母と叔母は、実の親子ではない。母の兄が幼いころ病死したため、母一人では寂しいだろうと、叔母を養女に迎えたのだ。私がそれを知ったのは多感な中学時代だったが、特段驚くことはなかった。祖母と叔母の関係を見ていて、母子であることを疑わせるようなことは、全く感じなかったからだ。

 夫婦が子供を生み育てたいという思いは、自然な願いである。しかし、AIDによる子供であることを秘匿すれば、親子の間に重大な秘密を抱え込むことになる。これでは家族に葛藤(かっとう)が生まれて良好な関係を築くのは難しい。

 特別養子縁組でも、血のつながった親子と同じ関係を築くことができることに、日本人はもっと目を向けるべきだろう。(敬称略)

 編集委員 森田 清策