天皇と日本国を讃えた柿本人麻呂
建国記念の日特集
萬葉集研究家 四宮正貴氏に聞く
きょうは建国記念の日です。日本の国が形成される時、編纂(へんさん)されたのが萬葉集で、最初の和歌集です。ここに集められた歌を手掛かりに「柿本人麻呂の天皇賛歌」というテーマで、萬葉集・古代史の研究家、四宮正貴氏に話を聞きました。
(聞き手=増子耕一)
神話的発想をとどめる/「日本の心」を歌う空前絶後の大歌人
萬葉集は大激動・大動乱の時代/国家建設時代の歌集
萬葉集はわが国でいちばん古い歌集として知られていますが、実際には物語や叙事詩や評論など、さまざまな要素が含まれていて、スケールが大きく、内容も多彩です。

しのみや・まさき 昭和22年東京生まれ。同44年二松学舎大学国文科卒業。同大学付属図書館司書、同大学国文科研究室助手を兼ねる。作家の中河与一に師事。同60年より「萬葉古代史研究会」講師。現在、著述業。著書『日本的文芸論』『天皇・祭祀・維新』『初心者にもわかる百人一首』ほか。
私が思うには、『古事記』と『日本書紀』は日本の伝統的な精神、中核的な精神、いわば日本の心を語っているということです。『萬葉集』はそれを歌っている。「語り」と「歌」との違いです。やがて物語文学と和歌文学が分かれていくのですが、『萬葉集』は、上は天皇から下は遊女に至るまで数多くの人々の歌が集められている日本最大のアンソロジーです。ですから伝統とは何か、古代精神とは何かを知るには、『萬葉集』がいちばんいい。日常的なことから、神様のこと、國體(こくたい)、政治、歴史、恋愛、自然観などありとあらゆることが歌われています。不思議と言えば不思議ですが、それが『萬葉集』なのです。
編纂された時代は、日本の国が具体的な形を持ち始めた時でした。
伝承歌を入れれば、仁徳天皇の御代から淳仁天皇の御代まで、約130年間の時代の歌が収められていますが、大化の改新から、白村江の戦い、壬申の乱、さらに聖武天皇の大仏造営の頃までの歌が数多く収められています。
和歌は平和な時代に花鳥風月を詠んだと捉えられがちですが、『萬葉集』の時代は大激動、大動乱の時代でした。そのような時に日本の国民的精神が結晶していったのではないでしょうか。日本国はこうあるべきである、天皇を中心とした国家を建設するという時代の歌集です。身分の高い人たちの歌だけでなく、一般庶民の歌も数多く収められています。そして天皇讃歌(さんか)、国土自然讃歌、恋愛歌、人の死を悼む歌など幅広い心が表現されています。
その一人に柿本人麻呂がいます。彼は宮廷歌人と言われていますが、宮廷歌人という存在は、どのようなところから出てきたのでしょうか。
人麻呂の身分については諸説あり、宮廷歌人が一般的な見方ですが、もっと位の上の人であったと言う人もいます。「舎人」という今でいう宮内庁の職員だったという説が有力です。人麻呂は飛鳥時代に朝廷に仕えた人であり、特に歌が秀でていて、とりわけ持統天皇に捧(ささ)げたので、「宮廷歌人」と言われています。
「宮廷歌人」という言葉は後世、萬葉学者が作った言葉です。萬葉の時代にそのような役職があったわけではなく、宮廷で禄を食(は)んでいたと思われる人麻呂が、天皇・皇后・皇族をたたえる歌を歌ったので、「宮廷歌人」であるとされた。
「壬申の乱」で天武天皇(大海人皇子)と天智天皇の皇子である弘文天皇(大友皇子)つまり叔父と甥(おい)とが戦って、天武天皇が勝利され、近江京は滅び、都は大和に戻って、天武天皇・持統天皇が『古事記』の編纂から伊勢神宮での式年遷宮の開始、「大化の改新」の完成である「大宝律令」制定までなされた。
大変革、大建設の時代で、人麻呂はこの時代に、持統天皇にお仕えした大歌人で、天皇と日本国を讃える歌を高らかに謳(うた)い上げた。ですからその文学的価値、思想的価値は非常に高い。
「近江の荒れたる都を過ぐる時」人麻呂が詠んだ歌を見ると、壬申の乱を事件としてだけ扱っているわけではありません。
事件としてより悲劇として描いています。「玉だすき 畝火の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじ)りの御代ゆ」と、神武天皇の建国以来、大和に都を置いてきたのに、「あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の」と、近江に都を置いたのはどうしてなのか、と歌われた。
ぼくはこの歌を読んで、「壬申の乱」の背景に都を大津に遷(うつ)したことに対する当時の人々の反発があったのかもしれないと思う。大海人皇子はそれが分かっていて、弘文天皇が吉野におられた大海人皇子を攻めようとしていると聞いて、吉野から出兵された。そうした歴史への深い思いから、人麻呂は「壬申の乱」を悲劇として歌い、大津の都が荒れたのは悲しいと歌ったのです。
そのような心情は日本人特有の世界です。
人麻呂は荒涼とした大津の都のあった場所に立って歌っています。人麻呂は「壬申の乱」の時、9歳か10歳であったという説と、20歳くらいであったという説がある。人麻呂が近江を訪れてこの歌を詠んだのは、「壬申の乱」から何年後なのかはっきりしません。
「<タマススキ>畝傍の山の」とか、「<ツガノキノ>つぎつぎに」とか、言葉遣いが面白いです。
神話的発想で、言わば祝詞調なのです。人麻呂が舎人としてお仕えしていたことが正しいとすれば、宮中祭祀(さいし)に深く関わっていたと考えられます。また、同僚に『古事記』の編纂に関わった稗田阿礼がいたと思われます。そうした事から人麻呂にとって神話は身近なものだった。故に人麻呂の歌には神話的発想が多いのです。それが人麻呂の歌の特徴です。
高市皇子を悼む挽歌(ばんか)では「かけまくも ゆゆしきかも 言わまくも」と祝詞の表現で始まっています。
高市皇子を悼む歌は、『萬葉集』の長歌の中でもいちばん長い歌です。高市皇子は天武天皇の第一皇子です。『壬申の乱』の時、父君の大海人皇子が「近江朝には人がいるが、私には頼むべき臣下がいない」と言われると、高市皇子は「私がいます」と言って、大変大きな功績を残された。
大海人皇子は関ヶ原の近くのところで陣を敷いた。人麻呂はその時のことを「和暫(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して」と詠んでいますが、新たな天皇が立ったということなのです。邇邇藝命(ににぎのみこと)と同じように天武天皇は天降ってきたと表現しています。
天武天皇は、先帝の御子を廃して自分が天皇になったのです。だけど人麻呂は「天降り座して」と表現したところに意義がある。微妙なのです。『日本書紀』では、大友皇子すなわち弘文天皇は即位したことにはなっていません。だけど水戸学の『大日本史』には即位したことになっている。
私も、2回、大津の都跡に行きました。弘文天皇の御稜が滋賀県の県警察学校の敷地のそばにあって、警察学校の敷地を通らないと行けません。
「壬申の乱」は歴史上大変な出来事で、南北朝の乱の時より緊迫したと思われます。大海人皇子(後の天武天皇)は、戦いの初期、伊勢国に滞在され、伊勢神宮に参拝され戦勝の祈願をされた。人麻呂はそのことを、高市皇子を悼む歌で「渡会(わたらひ)の |斎(いつき)の宮ゆ 神風に い吹きまどはし」と詠んでいます。
『萬葉集』全20巻に約4500首の歌が収められていますが、戦闘を歌った歌はこの長歌が唯一です。「引き放つ 矢の繁(しげ)く 大雪の 乱れて来れ」と具体的に歌っています。ですから人麻呂が参加していたという説も成り立つのです。
国の出発の時代でしたが、ある意味では時代の終わりという印象も受けます。
この時代は、古墳時代から律令制国家への転換の時代です。「神人分離の時代」とも言われています。大らかな信仰共同体国家から、律令を基本とした中央集権国家に移っていく変革と建設の時代だったと思います。
――人間のタイプが少し後世の人々と違うような感じがします。激しい情熱のぶつかり合い、おおらかで率直な表現、その生きざまが、なんとなく大陸的にも感じられます。
神話の時代から古墳時代まで、日本人は明るく、おおらかで、バイタリティーがあって、力強い生き方をしてきました。ぼくが思うに、当時、大陸の政治制度、法律制度、そして儒教と仏教が日本に入ってきました。それらが浸(し)み込んで日本人の本来的なコア・パーソナリティーと重なっていった。『萬葉集』の時代の後は、そういう時代でもあります。平安時代になると、その名の通り平安の御世となりますが、ある意味で退嬰的(たいえいてき)になり、バイタリティー、力強さが希薄になったとも言えます。中世の戦乱期には、仏教の無常観が深く浸透し、「厭離穢土、欣求浄土」となる。
しかし元寇の時の鎌倉武士、明治維新の志士、あるいは大東亜戦争の時の兵士たちは、国家の危機的状況において神話の世界、わが国本来の精神に回帰しました。日本民族の大らかな精神、神話時代以来の精神は今日まで脈々と続いていると私は思います。
人麻呂は文学史の上ではどのように位置付けられるのでしょうか。
文学史上、空前絶後の大歌人です。『萬葉集』の歌人で最も優れているのは男性では柿本人麻呂と大伴家持、女流歌人では額田王。もう一人大伴家持の叔母さんで大伴坂上郎女がいます。この4人が代表歌人ですが、人麻呂はその人たちの中でもスケールが大きく、素直に日本の心、伝統精神を謳い上げています。敬神崇祖、天皇讃歌、自然崇拝、恋愛への情熱という「日本の心」を実によく歌っています。
もう一つ、興味深いのは仏教との関連です。推古天皇の時代に仏教が伝来し、法隆寺、東大寺、四天王寺など今日に残る大寺院が造られ、仏典も研究されましたが、これが不思議なのです。『萬葉集』4500首の中で仏教思想について歌った歌は4、5首にすぎません。皇族から庶民まで仏教についての歌がない。
歌の形式で思想や哲学を表現するのは難しく、なかなかうまくいかないようです。
そうですが、後世には「釈教歌」というのがあります。教理を歌った「阿耨(あのく)多羅(たら)三藐(さんみゃく)三菩提(さぼじ)の仏たちわが立つ杣(そま)に冥加あらせたまへ」という、伝教大師の比叡山についての歌がありますし、「御詠歌」というのもあります。宗教は歌がないと成り立たないのです。
なるほど、そうです。昭和天皇が崩御されたとき、小紙で、詩人の浅野晃さんに追悼の詩を依頼したことがありました。萬葉集の長歌と反歌の形式をそのまま使って詩を作っていました。
素晴らしいですね。長歌はその後衰えたのですが、近代に代わるものが作られるようになった。いわゆる「近代詩」です。浅野先生も、薄田泣菫も、島崎藤村、土井晩翠、萩原朔太郎など、近代詩人は、『萬葉集』の長歌の伝統を継承したと思います。
きょうは、ありがとうございました。