堤防決壊に治水より避難を勧める野党の「平和ボケ」に似た各紙社説
「逃げること」に焦点
作家の司馬遼太郎氏は『街道をゆく』で度々、河川について取り上げている。「因幡・伯耆のみち」にはこうある。
「大陸では、河川は深沈として流れている。が、島山である日本の場合、山に降った水はにわかに河道にあつまり、揉みあって滝のように海へ落ちる。それらの滝が、洪水のたびに山脚をけずりとって盆地ができ、さらに海へ土砂を流して、河口に扇状平野ができた。それが、日本である」(第27巻・朝日文芸文庫)
司馬氏は続けて「日本の戦国期からはじまった治山治水という土木は、河川の危険をいくぶんかは防いだが、だれも土木に絶対的な安堵感を置かなかった。戦後、強力な力で治水土木が始まったが、相手が水である以上、絶対安心というものではない」と記す。
それがいつしか安堵感を置くようになった。「コンクリートから人へ」を唱えた民主党政権は「仕分け」と称して堤防予算を削り、かえって人を損なった。反安保法案を叫ぶ野党の「平和ボケ」と鬼怒川決壊はどこかで繋がっている。
各紙社説も日本人の治水の伝統を忘れたかのように「逃げること」に焦点を当てる。朝日は言う、「確かに日本各地の主要河川流域は、長年の治水工事の積み上げで安全度が高まったが、そこに過信はないか。過去になかったような雨量や水量が起こりえる今、むしろ河川は常にあふれたり、堤防が崩れたりしかねないものと考えるべきだろう」(12日付)。
それはそうだが、ではどうするのか。「テレビやラジオ、自治体の防災メールなどで情報を集め、家族らとともに機敏に避難する心の備えをもっておく。台風シーズンが続く今、その原則を再確認したい」。要するに逃げる準備をしておけというのだ。
防災に対し土建批判
毎日も「避難のあり方再検討を」(同)と言い、東京は「今回の豪雨で、あなたや家族の携帯電話に、どのような情報が送られてきたのか、あるいは来なかったのかを確認することから始めてはどうだろう」(11日付)と、逃げることしか念頭にない。
もとより「災害から命を守るために、『早めの避難』の大切さを、改めて心に刻み込みたい」(産経11日付)。だが、それだけではあまりにも心もとない。日経は「対策として長い河岸の堤防を『100年に一度』といった被害にも耐えるべく強化し続けることは財政的に難しい。むしろ、適切な監視と情報の開示などで、早期避難の徹底を図ることが重要」(12日付)と、まるで治水放棄宣言だ。
読売も「予算上の制約を考えれば、全河川の堤防を直ちに強化するのは現実的ではない」(13日付)とつれない。無い袖は振れないというわけだが、治水はなにも堤防強化だけではない。本紙が森林整備による保水機能向上を訴えるように(12日付)、さまざまな手がある。それを言わずに逃げるだけとは―。
この発想は反安保論調に通じる。冷戦時代に、ソ連に侵略されれば戦わず白旗と赤旗を掲げて降伏すれば犠牲を出さないと論じた学者がいた。「奴隷の平和」だ。こういう心持ちでは水を治められない。
なぜ新聞、ことに左派紙は治水対策に消極的なのか。それは民主党の「仕分け」に喝采を送り、安倍政権の防災対策である「国土強靭化」策を土建国家の再来と冷ややかに伝えたことと無関係ではあるまい。
身の安全守る国土を
鬼怒川決壊の直後に首都圏で震度5弱の地震があり、直下型地震の恐怖がよぎった。洪水と地震。日蓮が説いた「三災七難」を思わせる。三災は火災、風災、水災。七難は伝染病、干ばつなどのほかに「他国侵逼難」がある。外国からの侵略のことだ。
朝日は創価学会内に反安保法案の動きがあると嬉々として報じるが(7日付)、日蓮の「立正安国論」にはこうある。
「国が失われ家が滅んでしまえば、いったいどこに逃げるというのか。あなたが自身の安全を確保したいと願うのであれば、まず国土全体の静謐を祈ることが不可欠なのだ」(講談社学術文庫)
それが正法に帰依することだという。とすれば、滝のような河川にも外国からの侵略にも、逃げずに果敢に臨むところから「安国」が始まる。それを拒む現在の悪法は、左派紙がまき散らす「9条信仰」の空念仏とは言えまいか。
(増 記代司)





