遺骨収集の道筋を見届ける 東部ニューギニア戦友遺族会会長 堀江正夫氏に聞く

東部ニューギニア戦〈下〉

本格作業期待されるミャンマー/インドネシアでは宗教の壁

400-1

 ――遺骨収集は待ったなしだ。

 東部ニューギニアでは陸海軍合わせて亡くなったのが13万人だ。そのうち、日本に帰られたのは5万柱でしかない。まだ8万柱が残っている。東部ニューギニアでの毎年の遺骨収集経費は2500万円だ。硫黄島では毎年10億円出ている。硫黄島では1万人の遺骨収集が終わり、後、1万人の遺骨が残っている。「残り1万のために10億。我々8万のために2500万ですよ」と安倍首相に言ったら、びっくりされていた。

 10年ほど前、尾辻厚生大臣の時、ニューギニアとかブーゲンビル、フィリピンなどでの遺骨収集のため現地事前調査制度を作った。それまでは、政府は情報があれば、そこに遺骨収集団を派遣していた。だが情報を待っているだけだと「百年河清を待つ」でしかない。積極的に事前調査に行って効率を上げようというのが現地事前調査制度だ。

 ――遺骨収集の全体像は?

 ミャンマーは一時やっていた時期もあったが、軍事政権になってやっていなかった。これから本格的な作業が始まるのではないか。

 インドネシアは日本軍の遺骨収集を拒否してきた。当初は独立問題で、もう一つは文化の違いからだった。イスラム教では遺骨を持ち帰って死者を弔うことはない。死生観と宗教観が日本とは違う。さらに最近は何年も経過した遺骨は文化遺産だからという理由からであった。

 どこの国でも、遺骨を持ち帰るには、その国の許可が必要だ。

 ただビアク島では、たくさんの日本兵が死んだので、慰霊に出掛けて行き、そこで見つけた遺骨だけは収骨してもよろしいということで、例外的に許されてきた。

 昭和19年4月にホルランジャとアイタペが攻撃された時、この地方にいた東部ニューギニアの部隊1万8000人のうち、その大部は西ニューギニアに転進中、死亡しているが、その遺骨収集が全くできていない。

 何とかしてニューギニアで倒れていった将兵たちの遺骨収集をもっと本格的に政府の責任でしっかりやっていただきたい。その道筋を見届けてから、あの世に行きたいと思っている。そうでないと死んでも先に逝った戦友に会わす顔がない。

600 ――東部ニューギニア作戦の概要は?

 南海支隊がポートモレスビー攻略のため、オーエンスタンレー山脈に挑んだのは昭和17年7月下旬だった。

 ところがポートモレスビーに向かう道があるのかどうかさえ、当時よく分かっていなかった。この作戦は、行けるかどうかもはっきり分からないまま始めた。

 ポートモレスビー作戦はガ島重視のため、途中で中止後退、その後、終戦の前日まで、ブナ・ギルア、ワウ、ラエ、サラモア、フインシ、アイタペで迎撃作戦と戦闘、地上行軍を間断なく反復し、この間、4000㍍級のサラワケット、3000㍍級のフィンシュテル山脈、さらにマーカム、ラム、セピック等の大河を踏破して、地上5個師団、空軍機1000機、2個機動艦隊のマッカーサー軍と戦い続けた。

 結論を言えば、日本は国力を超えて戦線を拡大し過ぎた。

 「限界を超えて戦域を拡大すると、その端末における破綻は必ず全般の戦勢に重大な影響を及ぼす」というのは戦略の原則だ。

 日本はすでにミッドウェーで大打撃を受けていた。それにもかかわらず、太平洋を渡って5000㌔、弾薬兵器、食料、そして人員の補充はどうなるか分からない中で、東部ニューギニア作戦を行った。

 制空、制海権無き地上戦がいかに悲惨なものであるか僕は現地で実感することになる。

 さらに決定的だったのは豪州の存在だった。将兵が病気になっても即応できるし、補充が可能だ。つまり彼らは、部隊として常に完全な編成装備で戦うことができた。

 それに比べこちらは、人員の補給も弾薬の補給も何もない。だから、戦闘と機動ごとに戦力は激減した。

 向こうはまず飛行機でジャングルを爆撃し、疎林にしてしまう。あとは戦車を前進させ、火炎放射器であちこち焼き尽くす。

 補充も何もないわけだから、サラモアの時など砲兵が10発なけなしの弾を撃つと、向こうからは何千発ものお返しが来た。

 こちらはじっと我慢をして、敵が近づいてから射撃を始め、最後には銃剣を突きつける。死んだ兵隊も壕の前に積み重ねて掩体(えんたい)にして戦った。

 敵将アイケルバーガーは著書「血みどろの戦記」の中で「世界最強の軍隊をここに見た」と書いてある。

 ただ死んだ兵士は13万人だが、戦闘で亡くなったのは35%だ。他はマラリアや栄養失調だった。

 ニューギニアに行ってマラリアに罹(かか)らなかった者は一人もいない。軍司令官以下、全員、マラリアに罹った。人によって差があるが、40度の熱が3日間くらい続く。体力がないとそれでダメになる。

 陣地を取られ、それを取り返す。また取られる。また取り返す。そのうちにこちらは兵力がなくなってしまう。

 ――そんなに彼我の差が。

 ニューギニアで生き残ったのは1万3000人。原住民の協力がなければそれだけも生き残れなかった。特に最後の場は、サゴ椰子(やし)のでんぷんを原住民が生産し、運んで補給してくれた。それを食べていた。

 食べれるものは何でも食べた。蛇とか見つかったら、脂が摂れるし大変なごちそうだった。川エビもなかなかうまい。野草は食べれるものは食べた。パパイアの木は煮ると大根、根はごぼうみたいだった。

 ――格別なごちそうは?

 初めは野ブタや鳥を鉄砲で撃っていた。しかし、弾がなくなるからということで禁止令が出た。だが高砂族の連中は仕掛けで捕る。彼らは血を取って腸に詰め、煮て腸詰めにする。参謀部には片足を持ってきてくれるのだが、筋ばかりの肉で固くてうまくはなかった。彼らはあと、頭を切って煮て食べるのだが、一度だけ食べさせてもらった。脂肪分が多くて柔らかく、耳も鼻も口も最高だった。

 アイタペ作戦では、食べるものが何もなく、遂にウジやハエまで煮て食べた。

 同じウジでも、サゴ椰子をとった後にわくウジは太くて香ばしい。

 当時、300近く作った和歌にも書いてある。

 辺りには蜥蜴(とかげ)もバッタも絶えければ 竟(つひ)に蠅食ひ蛆も食ひけり

 サゴ虫を焼きて居るかや ほんのりと油の焦げる 匂漏れ来る

 この虫のあまりにうまし 四萬の兵にことごと 食はしたきもの

 日本が大東亜戦争で負けた一番の初めのきっかけは、ミッドウェー海戦にあるといわれているが、はっきり言えば負けるべくして負けた。

 さらに言うと、日本の軍は明治建軍以来、2頭の駒で天皇に直属していた。その陸軍と海軍は、別個の存在だ。そして双方、相並び立ち予算は同じ金額にする。

 僕もシナ大陸や東部ニューギニアで、陸軍と海軍というのは、いろんなことで溝があることを痛感させられた。

 結局、海軍はミッドウェーでやられ、自分の任務を達成するのに精いっぱいだ。陸軍を助ける余力はなかったというのはあるが、そもそも本土から5000㌔も離れたニューギニアで陸海軍が協力してやろうというのが、ほんの最初の一時期を除き無かった。

 だから明治建軍以来、少なくも統一した一つの組織で陸海軍が運用され編成されることが無かったことが間違いだったと思われてならない。それこそが日本にとって、安全保障上の大きな教訓だと僕は思っている。

(聞き手=池永達夫)

 1915年6月16日、新潟県生まれ。東京陸軍幼年学校、陸士予科を経て、陸軍士官学校を卒業。旧軍時代は歩兵科士官で、太平洋戦争中に陸軍大学校を卒業し、終戦時には第18軍参謀。終戦後、警察予備隊および保安隊を経て陸上自衛隊西部方面総監(陸将)として勤務。退官後、自由民主党から出馬し参議院議員を務める。日本郷友連盟名誉会長。英霊にこたえる会名誉会長。著書に「堀江正夫闘魂の詩-元自衛官の手記」「日本の防衛私はこう考える」「留魂の詩-東部ニューギニア戦記」など多数。