安達司令官は猛将であり聖将 東部ニューギニア戦友遺族会会長 堀江正夫氏に聞く
東部ニューギニア戦〈上〉
73年目の開戦記念日を迎えた。先の大戦では「ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア」とも言われ、とりわけ南洋進出ではジャワとニューギニアの彼我の差は大きなものがあった。東部ニューギニア作戦の生き証人でもある東部ニューギニア戦友遺族会会長の堀江正夫氏に、その戦争実態と教訓を聞いた。
(聞き手=池永達夫)
心を鬼にし捨石の覚悟
15万人の兵力、13万人の戦死
――最近、講演録が出版されたり新聞でインタビュー記事が掲載されるなど99歳と思えない活躍ぶりだ。
8月の新聞記事では、パプアニューギニアの原住民が非常なる協力をし、将兵がいかに奮闘したかが、あまり書かれていない。
さらに安達軍司令官の存在は極めて偉大だった。それを書いていただけなかった。
――安達軍司令官の偉大さとは?
上司の命令に対し全力投球するとともに、常に全般の作戦に寄与することを基本としておられた。
しかも、その成否については全部、自分の責任においてなす。一切、部下に対して批評もしなければ、もちろん、詰問することも責任を問うこともない。全部、自分の責任にする。
作戦の節目には、厳しい戦場に万難を排して行かれて、そこでみんなを激励するというより「本当にご苦労だ。よくやってくれている」と言ってみんなに感謝した。
それからどんなに苦しくても、公のために命を捧げるという思いを部下に対し、よく説き聞かせ理解させていた。
心を鬼にしながら我々は捨石になって構わないのだという覚悟と、反面において部下を可愛がった。
アイタペ作戦直後、部隊を後退配備する最も厳しい状況の時、軍司令官は大酋長を自分で訪問されて頭を下げ協力を求めた。患者の収容についても自分できりもみされた。
療養場所の確保や糧食の補給についても、自分で具体的に工面する。普通、軍司令官はそういうことはしない。しかし、いちいち、部下のため、兵隊のために精魂を傾けた。
戦争の帰趨(きすう)がどうであれ、戦死した多くの部下と共に、このニューギニアに残り自分は生きて帰らないと決めておられたように思う。
終戦後、現地で友軍として活躍していたインド兵部隊の部下が捕虜虐待でB級戦犯に問われ、軍司令官も拘束され最後に終身刑を受けられた。裁判では終始、もし罪ありとすれば自分の責任であると部下を援護された。
その遺書では過酷を極めた戦場で、なお厳しい行動を強い、たくさんの犠牲があったことを泣きつつ、自分も一緒にこの地に留まると述べておられる。
最後は小刀で腹を切り、自ら手で頸(けい)動脈を押さえて自決された。本当に猛将であると同時に、聖将だった。
食べ物もなく、炎天下、マラリアやアメーバ赤痢が蔓延(まんえん)する中、みんなふらふらしながら、兵員や弾薬、兵器の補充もないまま、戦闘部隊も後方部隊も真に一体となって戦った。飛行機はなく、海軍の協力もない何もないところで3000㍍を超す山岳を踏破し、橋なき河と道なき道の長距離の行軍を繰り返しながら戦った。
しかし、軍司令官がおられたから、18軍というのは、ああした厳しい状況下でマッカーサー率いる連合軍を2年間にわたってわが正面に引き止め、それだけフィリピンへの進撃を遅らせた。
パプアニューギニアの国土は日本の二倍だ。我々の作戦地域というのは西のホルランジャ(ジヤブラ)からポートモレスビーまでだ。ホルランジャが岡山だとすると、ポートモレスビーが函館といった地理感覚だ。
大東亜戦争では、インパールもレイテもひどかった。フィリピンも随分ひどい損害を出し、硫黄島やサイパンにしてもみんな玉砕している。
だが3個師団が、こうした広大な地域で3年間にわたって戦い抜いたというのは他にない。
パプアニューギニアには陸軍と海軍陸戦隊など15万人もの兵力が投入された。そのうち戦死したのは、実に13万人に上る。
――安倍首相が7月、パプアニューギニアを首相としては30年ぶりに訪問された。
パプアニューギニアにはラバウルとウェワクに日本の慰霊碑がある。両方はとてもお参りできないだろうから、何とか一番の激戦地だったウェワクに行っていただきたいと願っていた。
今、州知事をしている親日家のソマーレ初代首相にも会っていただき、お礼を言ってもらいたいという気持ちもあった。
安倍首相はウェワク行きを決定され、それで僕も現地でお迎えした。
東部ニューギニア作戦の現実を知っているのは僕しかいない。それで首相にそれをお話しし、原住民の協力や遺骨収集の現状や問題点も話した。
その時、原住民に関し、このようなことをお話しした。
終戦後、自衛隊を退官した昭和48年、政府の遺骨収集でパプアニューギニアに行った。泊まったホテルに、戦争中、水汲みをやっていた青年がいい年になっていて、やってきた。
28年ぶりの再会だ。戦争中のニューギニアと比べると、本当にいろんな点で豪州政府の施策で良くなっていた。電気はつくようになった。店もできた。住まいも良くなっている。さらに、みんな裸だったのに、今は服を着るようになったし、子供もみんな溌剌(はつらつ)としている。
私は「豪州によくしてもらってよかったな」と言った。
するとその男が、「それは違う。豪州はフレンドだ。だが、あなたたち日本人はブラザーだ」と言う。
「え、あれだけ戦争中、みんなを苦しめて、ひどい目に遭わせた我々が兄弟で、これだけよくしてもらった豪州がトモダチだというのはどういう意味だ」と聞くと「だって、あんたたち日本人は我々と一緒に肌を突き合わして、ごろ寝してくれた。一緒に同じものをつついて食べたじゃないか」と言う。
要するに日本人によって人間として初めて扱われたというのだ。
確かに当時から現地には教会があって、彼らの多くはクリスチャンだ。ところが彼らは教会で礼拝には参加するけど、牧師の私生活には一切、ノータッチだ。牧師がキリスト教を説きながら、人間扱いしていないからだ。
原住民は皮膚病があったり体が臭く不潔そのもので、牧師といえども自分のところに寄せ付けない側面があった。
ところが日本は負け戦だったし、本来、人種的な偏見はない。すぐ友達になって、一緒になって行動する。彼らにすれば、それが非常に嬉しかった。
今、パプアニューギニアには中国が盛んに進出している。マダンのニッケル鉱山の採掘では、5000人ぐらいの中国人を連れてきてやっている。
中国は自分とこの人間を連れてきて、地元のプラスにはなっていない。日本人のやり方と全く違う。
まだ臨時政府の時、マダンに日本の本州製紙がチップ生産工場を建設したことがあった。その時、原住民をできるだけ雇用する。管理職にも原住民を育てていくという経営方針だった。
――中国は鉱山以外にも進出しているのか。
南のアラフラ海の天然ガスにも出てきている。
僕がパプアニューギニアに行くたびに一緒に行動してくれて、面倒を見てくれていた州政府の役人がいた。だが、何度も連絡したが今度は出てこない。中国に取り込まれたからではないかと思われる。中国に招待されて二度行ったという。
本当に日本に好意を持っていた連中が、中国に取り込まれているのが残念だ。






