朝日バッシングを懸念する論客に語らせ「多様な言論」を示した文春

◆半藤氏は問題を混同

 毎週「朝日」問題を追及している週刊文春は10月9日号で「追及キャンペーン保存版」として34人の論客に「私の結論」を述べさせている。「怒り、嘆き、励まし」の内容だ。中で、「作家、元『文藝春秋』編集長」の「半藤一利」氏が、「朝日バッシングに感じる『戦争前夜』」を警告した。

 半藤氏は、「いまの過度な朝日バッシングについては違和感を覚えます」として、「昭和史を一番歪めたのは言論の自由がなくなったことにある」と述べ、“朝日批判一辺倒”の風潮に懸念を示した。

 その上で、「言論は多様であればあるほど良い」のだが、「今の朝日バッシングには、破局前夜のような空気を感じますね。好ましくないと思っています」と結んでいる。

 つまり、半藤氏は朝日批判の奔流に、かつて、多様な意見が顧みられず、「満州事変から、日本の言論は一つになって」しまったのと同じ空気を感じるというのだ。

 だが、半藤氏の意見は別々の問題を混同しているように思えてならない。「慰安婦狩り」をしたという吉田清治の話が虚偽であり、早い段階でウソと知りながらも、それを土台に報じ続けた朝日の報道を「多様な言論」というのか、「吉田調書」の意図的ともいえる読み間違いを「多様な言論」というのか、ということだ。

 むしろ、「多様な言論」を封殺してきたのは朝日新聞自身であって、社内で「吉田清治証言」のウソに気付き、軌道修正を試みようとした記者の動きさえ止めてしまったのは、これこそ「多様な言論」を否定した、というべきではないか。だから、「多様な言論」を説いてやるべきは朝日に、である。

 その朝日を追及する現在の風潮が「戦争前夜」と危惧するのもおかしい。現にわが国では「多様な言論」が、半藤氏が古巣の文春で発言できるように十分に保障されている。「週刊文春を筆頭に、読売、産経などあらゆるメディアが」というが、読者はそれほどバカではない。

 朝日批判の急先鋒(せんぽう)に立っている同誌だが、敢て半藤氏のような「多様な言論」を掲載して、それによって、同誌は朝日批判の地歩を確保している、と穿(うが)つ読者もいるから安心してほしい。

◆現代が海外反応特集

 もちろん、「多様な言論」が保障されるべき、という意見には大賛成だ。事実上共産党一党独裁の中国が言論封殺するのは、それが彼らの本質だから理解できるとして、一応自由民主主義国家であるはずの韓国が「親日」といわず、日本に理解を示した言論を一切認めていないが、それに比べてわが国は、時に内部同士で議論をぶつけ、結果、敵失を招くほどに、「多様な言論」が保障されている。

 週刊現代(10月11日付)が「世界が見た『安倍政権』と『朝日新聞問題』」をトップ記事で報じている。

 同誌は日頃から日本に批判的なジャーナリストや学者のコメントを繋(つな)ぎ合わせて、朝日を叩く安倍政権の右傾化が加速しており、世界はそれに懸念を示していると伝える。

 「安倍首相は、日本の過去の歴史にプライドを吹き込むことを、自らの重要な使命と考えている」(フィナンシャル・タイムズ9月12日付)。「安倍首相と保守派が、国家アイデンティティを再定義したいと考えている」(テンプル大学ジャパンのジェフリー・キングストン教授)。これらの見方は一面で安倍政権の特長をとらえていると言っていい。

 「安倍は第二次大戦の意義を書き換えようとしているのではないか」という疑念は米国や欧州で多く、それは戦勝国に疑義をぶつけ、戦後体制への挑戦になると受け止められている。今回の「朝日問題」への対応にはそれが顕(あらわ)れているというのだ。

◆言論保障される証左

 安倍首相やそのブレーンがこうした現にある「欧米との乖離(かいり)」を十分に理解しているのかどうか心配ではある。海外メディアや影響力のある日本研究者に対して、安倍政権が目指すものを理解させる努力が不足した中で、環境が整わず、生煮えのままに突き進んでいるような危なっかしさが感じられるのだ。

 同誌の記事は一方的な情報ばかりで構成されたものだとしても、わが国の「多様な言論」が十分に保障され、機能していることの証左にはなるだろう。

(岩崎 哲)