鬱は希望へのジャンプ台 仏教研究家 岡村貴句男氏に聞く
積極的にウツ状態に投げ込む禅
何かとストレスや不安材料の多い現代社会では、鬱(うつ)(以下、ウツ)になる人が少なくない。その症状は重度軽度さまざまで、これといった特効薬もなさそうだ。エンジニアであると同時に、道元や親鸞について詳しい仏教研究家の岡村貴句男氏は先ごろ、ウツを哲学的、思想的に考察した『鬱は希望へのジャンプ台』を上梓(じょうし)した。これまでの医学的見解とは趣を異にし、ウツを前向きに捉えたユニークな内容が注目されている。その中の要点をいくつか聞いた。(聞き手=池田年男)
強靭な精神性を育む/自分で這い上がり悟りへ
家庭内での生老病死は子供の貴重な教育機会
――ウツとは一般に、心が晴れ晴れしないこと、ふさぐことを言います。ウツ病となると、日本での患者数は現在、約100万人とのデータもあります。岡村さんは既にあるような医療面からのアプローチではなく、全く独自の視点からウツの問題に挑んだわけですが、その動機から聞かせてください。
ウツについて全くの門外漢が臆面もなくウツについて説くなど、専門家からすればもっての外のことでしょう。しかし、これまでとは違った何か新しい発想で、ウツの人に救いをもたらすヒントにでもなればと考えたのです。
まず、はっきりしていないウツの定義を新たに設けてみました。そこから見えてくるウツは、病気ではないということです。人間である証拠と言ってもいい。重いか軽いかは別にして、誰もが一生のうちで何度も経験することです。健全な心の節目、人生における成長の節目だと考え、哲学、宗教、教育、心理など広範囲な分野から解くことにしました。
――ウツ状態というのは普通の感覚から見ると病的ですから、どうしても病理学的に分析していく。そこからウツ病に対する治療が始まるわけですが、対症療法ばかりが注目され、根本的な療法が遅れ気味のようですね。
ウツの原因がいまひとつ明らかでないことから、「医者が病状を作っている」とさえ言えるのかもしれません。自分はウツではないかと思ったとしても、とりあえずその状況を受け入れておいて、心の中を整理してみることもウツに立ち向かうための一つの方法だと思います。
過去の哲学者や宗教者、あるいは大きな業績を上げた実業家などは、少なからず重いウツを経験しています。ただ、彼らの場合はその重篤さの程度に比例して、そこから飛躍を遂げています。ウツが重ければ重いほど、飛躍の度合いが高くなるという逆説を唱える哲学者もいます。
そういう人のウツは、理想や夢に向かって没頭するあまり、周りのことが目に入らなくなって第三者からは自閉に陥っているように見える、いわば積極的なウツです。一方では、いじめや体罰のように他者から加えられた結果としての消極的なウツがあるとも言えます。
――そこで着目されたのが、禅修行のことですか。
禅の修行は、日常を平穏に送っている普通の人を積極的にウツの状態に投げ込んで、そこから這い上がって悟りを開くように導くものです。そこでは老師も先輩も何も教えてはくれません。なぜかというと、禅の世界では、他者から見たり聞いたり教えられたりしたことは自分のものにはならず、自分で気づいて考えて判断し、自分の意志で行動してこそ自分の力になるからです。
――坐禅がまさにそのための方法ですか。
坐禅というのは、意図的に修行者をウツに落とし込む方法だという見方ができます。そこからが坐禅の真骨頂で、指導する立場の人間が修行者をウツから混沌(こんとん)に陥る寸前で助け上げてくれるのです。
ウツに対しては、早い段階、つまりダメージの浅いうちにどのように混沌から脱出させるかが問われます。仏教で、豊富な知識が悟りの邪魔になるとまで説いているのは、ウツという煩悩が混沌を深刻にするだけの材料にしかならないと考えられているからです。そして、混沌から脱け出すには、当事者と関係する他者がそばにいることが不可欠です。
つまり、ここで関係という縁のことが重要になってきます。縁によってウツから脱け出るという縁起が生成されるには、発信する側に備わっている関係主義を活用することが肝要です。
――まさに禅問答のようですが。
若い修行僧である雲水は、成長段階にいますから、とかく心が安定しません。そこでは参禅することが第一で、少なくとも最初の公案をクリアすることが願われます。そういう環境のもとで雲水は自らウツの状態に入っていかざるを得ないのですが、一般世間のウツと違うのは、そこには信頼でき安心できる道場が整のっていることです。
道場では、経験者である老師が常に雲水の様子を見守りながら、状況判断し、ここぞというタイミングを見計らい、壁にぶつかって苦悩する雲水に何らかの形で働きかけます。その時に両者の関係主義が合致して、雲水の精神の殻が破れ、新しい境地へと飛躍するわけです。
――人間は単独で生きているのではなく、他者との相互関係に支えられて生きている存在なのだという世界観、宇宙観に目覚めるということですか。
そうですね。私は、相互間の実体主義が確立される瞬間だというふうに考えていますが、そこで初めて、老師が雲水を助け出すことができる。こういう機微がウツからの脱出の手掛かりになるということです。
――見方を変えると、そういう人間同士の魂の激突というか真剣勝負のような関係が、現代では希薄になる一方で、地域でも家庭内でも人間同士のナマの接触が減ってしまいました。
携帯電話やIT機器による便利さの反面の弊害でもあるのでしょうが、私はボーイスカウト運動にも携わってきましたので、昨今の子供や青少年たちの傾向として、他人との関係をうまく結べない人が増えていると感じます。自分の精神を鍛える環境からどんどん遠ざかっていく。つまり人間関係における摩擦、いい意味でのウツを最初から避けて通っているようです。
家庭内でも、人間をウツに導いて強靭(きょうじん)な精神に仕立て上げるべき環境が取り除かれてしまったと言えます。例えば、世代も個性もそれぞれ異なった家族の中で育つ子供は、祖父母の死を目の当たりにして悲しんだり喪失感を味わったりするでしょう。しかし、そういう不幸な目に遭わせないようにと、親が病と死の現場を病院などの外部に移すようでは、子供の成長にとって最も大切なウツの経験を放棄したに等しい。
家庭内での生老病死は、子供が経験できる非常に貴重な教育の機会です。子供にとっては、家族の生き様を見届けることで、ウツになること以外にも、ウツの結果として強靭な精神性を育むとともに、他人に対する思いやりや協調性などを身に付けるための好機にほかなりません。
――ウツを契機に、自分のことよりもっと周囲に目を向けるような広い心を持とうということですか。
縁の尊さに気づいた人は、どんな状況に置かれても、縁起という関係に支えられていることが理解できているので、希望を失うことはありません。ウツは跳躍への前段階として必要なものです。ただ、その扱いを誤るとそれこそ病気に陥ってしまいますが、成功すると飛躍が成し遂げられる。今回の本ではそう強調したかったのです。