和平の「祈り」がもたらした不協和音
「信仰の祖」アブラハムから派生したユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3宗派代表が8日、ローマ法王フランシスコの招きでバチカン法王庁に結集し、中東の和平実現のために祈祷会を開催した。世界に12億人以上の信者を有するローマ・カトリック教会の最高指導者ローマ法王フランシスコ、ユダヤ教代表のイスラエルのペレス大統領、そしてイスラム教代表のパレスチナ自治政府アッバス議長の3人がバチカン内の庭園に集まった。
予定ではフランシスコ法王が宿泊に利用しているゲストハウスのサンタ・マルタ内の祈祷室で行うことになっていたが、突然、バチカン庭園の野外祈祷会となった。その背景について、バチカン関係者によると、ゲストハウス内にあるイエスの十字架がユダヤ教代表団の心情に不快感を与えるかもしれないからだという(ユダヤ民族がイエスを十字架に処刑したことを受け、キリスト教会では「ユダヤ民族のメシア殺人論」が聞かれる)。
祈りは先ず、ぺレス大統領が最初にユダヤ教の祈りを捧げた後、フランシスコ法王、そしてアッバス議長と祈った。ところで、同議長がイスラム教の祈りを終えた直後、イスラム教学者の一人がコーランの個所をアラブ語で朗誦した。予定には入っていなかったが、祈祷会に集まった関係者はその朗誦に傾聴した。ところが、イスラム教学者が朗誦した個所で平和を祈る祈祷会に相応しくない部分があった、ということから、後日、関係者の間で不協和音が生じている。
イスラム教学者が朗誦した個所は、コーランの2スーレ(編)の最後の3節、「アラーよ、許し、憐れみたまえ。あなたは我々の守りだ。不信仰な民から助けたまえ」というところだ。問題は「不信仰な者たちから助けたまえ」である。「不信仰な者たち」とは、ユダヤ教徒、キリスト教徒を意味していると受け取れるからだ。パレスチナ人とユダヤ人の中東和平実現のための集った祈祷会で「不信仰な者から助けたまえ」とは何事かという声だ。
それに対し、イスラム教専門家でバチカンのグレゴリア大学で教鞭をとるフェリックス・ケルナー神父は「コーランのこの個所はイスラム教が少数グループに過ぎなかった初期の時代に書かれたものだ。イスラム教徒たちは当時、多神教の異教徒たちから迫害されていた。だから、彼らは異教徒たちから助けてほしいと神に祈ったのだ。神を信じるユダヤ教とやキリスト信者たちを意味しているのではない」と説明する。
同神父によると、神への祈りでも3宗派の間で相違があるという。具体的には、「イスラム教徒が神に委ねるのは、神が全能だからだ。ユダヤ教徒の場合、神がユダヤ人を選民と選ばれたからであり、キリスト教徒の場合、神がキリストを送って下さったからだ」という。
前法王ベネディクト16世が2006年9月、訪問先のドイツのレーゲンスブルク大学での講演で、イスラム教に対し「モハメットがもたらしたものは邪悪と残酷だけだ」と批判したビザンチン帝国皇帝の言葉を引用したことを契機に、世界のイスラム教徒から激しい反発が起きたことがあった。全体の文章の流れとは無関係に引用されると安易に誤解が生じる。今回の場合もコーランの「不信仰の民から助けたまえ」という個所だけを取り上げると誤解される危険性が出てくるわけだ。
ユダヤ教徒はダビデの歌、詩篇第25篇の「どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください」と祈る。これも誤解されやすい。また、ユダヤ教徒の祈りには「我々のエルサレムは……」という個所がある。パレスチナとイスラエルはエルサレムの最終地位問題で久しく対立してきた。だから、この個所も問題になってしまう、といった具合だ。
フランシスコ法王は祈祷会の最後に「憎悪と暴力の悪循環を突破するためには“兄弟”という言葉がある。頭を天に向け、われわれの共通の父親を見つけることができれば、われわれは兄弟だと分かるのではないか」と述べている。
(ウィーン在住)