風土記に学ぶふるさとづくり 市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏に聞く
郷土の良さ再発見し始めよう
風土記(ふどき)は奈良時代初期の和銅6年(713)、元明天皇の詔により各国の国庁が自国の産物や地形、古伝説や地名の由来などを編纂(けんさん)し提出したもの。出雲はほぼ完本が、常陸・播磨・肥前・豊後の5カ国は一部欠損したものが現存する。今、風土記を読む意義を市谷亀岡八幡宮(いちがやかめがおかはちまんぐう)の梶謙治宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
書き込まれた豊かな風土/封建時代の地方興隆にも一役
国造りの一環として編纂/詳細な「出雲国風土記」
――風土記が編纂された目的は?
全国をほぼ統一した大和朝廷が、各国の事情を調査し、地方統治の指針としたもので、朝廷に恭順の意を示した各地方勢力の地勢調査と言えよう。律令(りつりょう)制による国造りの一環として風土記は編纂されたもので、それ以前の古い伝承などが集められている。
読んですぐ気が付くのは、『出雲国風土記』の異様なまでの詳細さで、主に地理関係の客観的な情報が多く、今の国勢調査のような記述で、伝承は少ない。それは、出雲国の独自の信仰や統治に対して、大和朝廷が配慮したことがうかがえるとともに、反乱などに対応するため、地理的な要件を優先させたとも考えられる。
――幕末に出雲の廻船商人が『出雲国風土記』に出てくる神社を巡拝し、神社の大半が残っているのに感心している。
出雲大社の宮司は今も国造(こくぞう)と呼ばれ、出雲氏族の長である千家(せんげ)、北島両家が代々出雲大社の祭祀(さいし)と出雲国造の称号を受け継ぎ、いわば祭政一致の統治を行っていた。奈良・平安時代の出雲国造は代替わりごとに朝廷に参向し、「出雲国造神賀詞」を奏上するなど特別な扱いを受けていた。
古代には祭祀王である天皇が統治も行っていたので、出雲は古い日本のかたちを残していたと言える。大和朝廷が成立すると、広い国土を統治する上で、祭祀と統治を分離したほうが効率的だとなった。
――風土記に書かれているのは、北の常陸国から南は大隅国まで。
しかし、そこにはまだ大和朝廷にまつろわない民たちがいた。常陸国では勿来(なこそ)の関までが支配下と考えられる。四国、九州は反乱分子はいるが、風土記編纂の時代にはそれほど大きな抵抗はなかった。
一方、筑波山を中心にしたおおらかな信仰や、平野から海や霞ケ浦など風土の豊かさや産物の多さなど、常陸の良さも書かれている。逸文しか残されていない国々でも、豊かな風土や産物が書き込まれていて、統一的な地誌を目指していたことが分かる。
それらを明らかにすることで、大和朝廷の威信も高まったのではないか。統治が及んでいるから、安心して明らかにできるという側面もあっただろう。敵対関係にあれば、つぶさに記述することはできない。
中央から国司を派遣してはいるが、各地では部族の支配を認め、緩やかな中央集権が行われていたのであろう。統治の苦心も読み取れる。風土記に出てくる天皇たちの苦労が語られ、武力によって征伐しただけではないことも分かる。
地方の産物などの調査は徴税にもつながるので、地方を立てながら統治するという両面の意図が感じられる。
――天皇が各地を旅して、時に戦うが、多くは知見を広めている。
当時、大人数を連れての遠征は無理で、地方の拠点を作りながら移動していたのであろう。戦も大規模ではなく、早めに手打ちをして、信頼関係を結ぶことを優先させていた。話の分かる王がやって来たという印象を与えることで、無用な争いを避けようとした。
『常陸国風土記』には筑波山と富士山の争いという、地方ならではの面白い話も収録されている。高さでは富士山にかなわないが、風光明媚(めいび)で人々に親しまれている点では筑波山が上だと、お国自慢をしている。
――『豊後国風土記』には尼寺が書かれている。
聖武天皇・光明皇后により国分尼寺(にじ)ができる前のことで、仏教の普及では九州の方が進んでいた。朝鮮半島から仏教を信仰する人たちが渡来し、最初に定着したのが九州なので当然だ。
朝廷が公認した仏教は鎮護国家の呪法や学問が中心で、僧は役人と同じ公務員だった。しかし、仏教が目指した成仏のため修行する僧もいて、個人的に出家する私度僧(しどそう)が現れる。とりわけ、日本に渡来した大乗仏教は人々の救いに向かう性向を持っていたので、現世利益を求める人たちの願いに応えようとする僧たちが地方にもいたのだろう。
地方で戦乱が起こると大きな被害を受けるのは女性で、尼寺には彼女らを救済する機能もあったのではないか。また、日本は昔から儒教のような女性差別的な意識は少なかった。
――韓神(からかみ)の話も多く、朝鮮半島との交流がうかがえる。
古来から日本は渡来神などの客人(まれびと)神を祀(まつ)っていた。京都市左京区修学院にある天台宗延暦寺の別院、赤山(せきざん)禅院は、元は赤山明神と呼ばれ、中国の山岳信仰の神・泰山府君が本尊。渡来した貴い神として祀られたのが、今まで続いている。
風土記の描写の豊かさは、封建時代の地方の興隆に脈脈と受け継がれた。大名が領地を治めるようになると、自前の通貨を発行し、為替も使われるようになる。日本の封建制度はヨーロッパと似ており、その時代に産業を含め地方社会がしっかり形成されたことが、明治の近代化につながった。
――渡来人の中で興味深いのは秦(はた)氏で、人口規模は最大で全国に広がり、地方振興の力になっている。
秦氏の織物の技術は、明治の富岡製糸工場にまで続いている。歴史が分断されず、地方と中央が共存したので、それが実現された。江戸時代には農民一揆などが起きたこともあるが、藩主の多くは新田開発や特産物の育成に力を入れていた。
――日本列島はそれから先には進めないから、ここに住み付いた人たちは仲良く暮らすしかなかった。
中国では他国との戦に勝つと、敵を皆殺しにするのが常識だったが、日本では敵を降伏させ、味方にするのが好まれた。日本の将棋はインドで始まったものが中国、朝鮮を経て渡来したとされるが、朝鮮の将棋までは取った敵の駒は使えないが、日本ではそれを使えるルールになった。それは人的資源に対する考え方の違いからだろう。
――密教は空海が唐から持ち帰ったものだが、唐ではその後、廃仏で消滅し、密教の文物は高野山など日本に残されている。
雅楽も中国、朝鮮では絶えてしまった。日本に古代の楽譜が残されているのは、皇室が初代神武帝より今日まで継続し、その中で宮中の祭祀や行事で雅楽が演奏されてきたからである。
――少子高齢化の影響により特に中山間部に代表されるような地方の疲弊が叫ばれている今、風土記を読み直す意義は大きい。
地方のポテンシャルの高さに、地方に住んでいる人たちが気付いていないことが多い。郷土のことをよく知り、良さを再発見することから、地方の「まちづくり」は始まる。古典文学であり神典でもある風土記は、「地方」を考える上でも大きな一助になると思う。