日韓は未来志向型交流を 金玉均研究会会長 卞東運氏に聞く
開化派・金玉均の思想
政府閣僚の靖国参拝問題や歴史認識などで深い溝を作っている日本と韓国。新政権になっても両国首脳会談は開かれず疎遠な状態が続いている。そうした中、札幌で昨年10月に金玉均研究会が設立された。韓国近代化の先駆者といわれる金玉均の人と思想を研究することで日韓両国の真の交流に向けた道筋が見えてくると同研究会の卞東運(ビョン・トンウン)会長は語る。(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)
現在の閉塞状況打破を/学ぶべきアジア融和の思想
日本を利用してでも韓国近代化にかける
――金玉均は中学校の教科書にも出てくるほど有名な人ですが、北海道と深い関わりがありますね。
韓国で金玉均は開化派として知られた人物でした。1884年(明治17年)12月4日にクーデターを起こして韓国における近代化を図ろうとしました。しかし、清国の介入によりクーデターは失敗して日本に亡命します。歴史上、甲申事変と呼ばれる事件です。失敗後、金玉均は韓国の仁川港から船で出発し、13日に日本の長崎港に到着します。そこから、10年に及ぶ日本での亡命生活が始まりました。東京に着いたのが18日。金玉均は真っ先に福沢諭吉邸を訪れ、そこで温かく迎えられた。東京には2年ほど滞在しました。井上馨(当時、外務大臣)に会おうとするのですが、それは叶(かな)わなかったといいます。この間、韓国側から日本政府に対し再三にわたる金玉均の身柄引き渡し要求がありました。それが叶わないと知ると、数次にわたり暗殺団を送り込みました。また、大井憲太郎や頭山満などの征韓派勢力が金玉均を口実にして資金を集め、武器や浪士を調達する事件が発生しました。一方、日本国内でも右翼などから命が狙われるという状況にありました。そこで日本政府は金玉均の存在がトラブルの原因になると思い、明治19年(1886年)7月、小笠原諸島父島に拘束します。小笠原での拘束期間は2年近くありました。ここでの生活はかなり辛かったようで身体を壊してしまいます。金玉均は東京に戻れるように要請しますが、日本政府は、「東京はまだ危険だ。北海道ならいい」ということで北海道に移送されます。しかし、そこから金玉均と北海道の関わりが生まれてきます。北海道には約1年8カ月滞在しました。最初に足を踏んだのは函館の地で、明治21年(1888年)8月1日と記録されています。
――北海道での金玉均の生活はどのようなものだったのでしょうか。
当時の北海道長官は永山武四郎で、彼は屯田兵本部長も兼ねていました。ちなみに、この年の4月、黒田清隆が総理大臣に就任していますが、黒田は北海道開拓事業の最高の功労者でした。その黒田と永山武四郎は薩摩藩出身で師弟の間柄でした。
永山武四郎は金玉均をアジアの近代化に貢献する革命家として尊敬していました。永山武四郎は金玉均に本や家を与え生活費も月50円提供していました。現在の北大植物園の隣には「金玉均の家」を700円で建築しています。金玉均がいなくなった後も、道庁南口に道庁幹部の住宅の2階を「金玉均史跡の家」とし、この建物が老朽化して壊される昭和34年まで保存されました。また、金玉均は道内各地を自由に歩くことができました。事実、金玉均は札幌・小樽間を何度も往復しています。そういう意味では北海道では、金玉均を拘束していたというよりもむしろ大切にもてなしていたといえます。
――北海道の生活の中で特筆すべきものがありますか。
北海道では交流の機会が多かったようです。政界、財界、マスコミ人らとよく歓談しました。その中で私が注目しているのは、明治21年10月8日の金玉均、永山武四郎、空知集治監典獄の渡辺惟精の渡辺帷精による3者会談です。これは、金玉均が武四郎に呼ばれ、永山邸で話し合いがもたれたのですが、その内容は明らかになっていません。ただ、単なる世間話ではなかったと思います。私の関心はそこで何が話されたのか、ということなのです。
渡道して3カ月余りたった11月に金玉均は当時の外務大臣大隈重信と内閣総理大臣黒田に書簡を出しているのです。内容は公開されているのですが、大規模な「農場経営」を上訴しています。わずか3カ月余りの間に自ら農場を経営したいと持ち出すのはいかにも突飛です。金玉均はなぜ農場を経営したかったのか、という疑問がまず出てきます。また、それは何千町歩にも及ぶ広さを求めているのですが、どうしてそのような広さの農場が必要だったのか、という疑問が起こります。これらの疑問への回答については私の独断なのですが、誰かの入れ知恵があったと思うのです。それが8月の3者会談にあったのではないか、というのが私の推測です。すなわち、永山武四郎が「朝鮮で再度、革命を起こすには資金が必要だろう。その資金を農業経営で獲得すればいい」というようなことを言ったのではないか、と思うのです。そうしてみると、金玉均の行動が理解できる部分が意外に多いのです。もっとも、「ある程度生活基盤ができたにもかかわらず、殺される可能性のある清国になぜ渡ったのか」など疑問も多く研究テーマは枚挙にいとまがありません。
――そうした中で、昨年10月に金玉均研究会を設立した背景には何があるのでしょうか。
一昨年10月に韓国忠清南道公州市の市長が私のもとにやってきました。私が書いた金玉均の記事を見てぜひ会いたいということでした。韓国でも金玉均の支持者は結構います。ちなみに公州市は金玉均の出身地ですが、韓国には金玉均に関連する資料はほとんどありません。ところが、札幌にはたくさんあるということで公州市長は、「これは大変だ」ということでやってきたというのです。金玉均は書の達人なのですが、現在、金玉均の書や関連する資料のほとんどは私の手を離れ札幌市立図書館にあります。その数は十七、八点になります。この他に個人で所有しているものも加えれば全部で23点ほどになります。公州市では金玉均の展示会を行いたいということで、それらの資料を借り受け、昨年10月に「金玉均展」が開かれました。
展示会には3000人ほどの入場者が来場し大きな反響を得ました。それで、これを契機に金玉均研究会を立ち上げてはどうかということで北海道で研究会が立ち上がることになりました。現在、会員は30名ほどですが、大学教授やジャーナリスト、企業経営者などが参加しています。
――金玉均を研究する現代的な意義は何だと考えますか。
日本が江戸時代に開国し、明治に入って近代化を進めたように、朝鮮でも清国から独立し、近代化を進めるべきだと考えた人は多くおりました。青年両班の金玉均もその一人で開化派として近代化を唱えていました。金玉均は近代化の先駆者として日本の支援を受けながら開化派を唱えたので、日本の植民地支配に利用されたと非難する人がいますが、私はそうは思いません。金玉均は純粋に韓国の近代化を図ろうとした。
むしろ、日本を利用してでも韓国の近代化のために生きたと思うのです。金玉均は清国、朝鮮、日本がそれぞれ独立した国として連携を持つことができれば、西欧列強に対抗することができるという「三和主義」を唱えていました。
現在、韓国は日本を歴史認識や従軍慰安婦などの問題で追及し、和解と対話の席に着こうとしません。また、韓国内にも日本を擁護する人々に対して「親日派」というレッテルを貼って差別する風潮があります。そういう状況が続いていくならば、閉塞(へいそく)状況に陥るのみで発展はありません。歴史の一点に執着すべきではなく、こういう時こそ真の国の繁栄とアジアの融和を唱えた金玉均の人と思想を学ぶ価値があるのではないかと思うのです。