コミュニティー文化で心の復興を 京都大学名誉教授 秩父神社宮司 薗田稔氏に聞く

震災復興と日本人の霊性

 東日本大震災から3年を経て復興が進む被災地では、被災者の心の復興が課題になっている。この間、被災各地では祭りや郷土芸能が地域の人たちを元気にしていた。そこで、自身も社殿や鎮守の森の再生などに尽力している秩父神社の薗田稔宮司に、大震災で発現された日本人の霊性と復興への課題について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

培われた立ち直る文化力/死者を含めた地域共同体

いち早く自力復興した祭りと慰霊的郷土芸能

 ――東日本大震災から3年が経過した。

400 被災地の復興では、被災者たちの心の復興が重要になっている。住宅の高台移転や大規模な防潮堤の建設は進み始めているが、心配なのは人々の心にかかわるコミュニティー文化が忘れられがちなことだ。

 被災地を訪ねると、自力での復興で顕著だったのは祭りと郷土芸能で、東北学を提唱した民俗学者の赤坂憲雄・学習院大学教授(福島県立博物館館長)は、「被災地の至る所で宗教が露出している」と語っていた。

 ――祭りには地域の物語、歴史や文化が集積している。

 祭りの特徴は老若男女すべての人がかかわれることで、特に東北一帯には祭りに演じられる郷土芸能が盛んだ。津波で家や祭りの山車などが流された地域でも、芸能を復興させ、住民同士が励まし合っている。

 また、神楽念仏など東北の郷土芸能には鎮魂や供養の意味を持ったものが多い。鬼剣舞も、亡くなった人の慰霊のために演じられてきた。震災の年の5月頃から各地で被災者を慰めるため、慰霊的な郷土芸能がいち早く復興され、夏のお盆には一斉に演じられた。子供の頃から親しんだ芸能によって、見る人も演じる人も癒やされ、力づけられていた。

 コミュニティーの復興には神社やお寺などを中心に、スピリチュアルないのちの共同体を再生していかなければならないが、行政は硬直的な政教分離の原則から、宗教施設への支援が行えないという問題がある。政府の震災復興構想会議で玄侑宗久師や赤坂憲雄教授も指摘したが採用されなかった。

 ――被災地では安全だった社寺の多くが、被災者の避難場所になっていた。

 神社には祭りに備えて米やろうそくなどの備蓄があり、水も確保されていたので、公民館などの避難所に提供した例もある。しかし、救援物資などの公的な援助は寺社に来ないので、長期間の滞在は難しかった。

 神社には町に里宮があると奥に山宮があり、山と川、里、海をつないでいる。三陸海岸から宮城県の神社を調べると、かつてはそのような構成になっていた。例えば、神輿(みこし)が海に入る浜降祭は山と里、海を結ぶものだ。土地の自然と人びとが結ばれているのが日本のコミュニティーで、私は家郷社会と呼んでいる。ふるさと性を持つ社会である。

 従来の欧米発想のコミュニティー論は、人間だけの、しかも生きている人だけの地域社会だが、柳田国男が指摘したように、日本の町は自然と一体で、さらに、そこに鎮まる先祖たちも参画したふるさととしての地域社会である。そこに郷土愛が生まれ、アイデンティティーも形成され、住民の絆が強まる。祭りや郷土芸能、先祖供養などを通して、いのちの交流をもったコミュニティーづくりを提案したい。そのシンボルが鎮守の森である。

 ――津波被災者からも海に対する恨みの言葉はほとんど聞かれない。

 日本人の自然観は、大きな恵みとともに、時には思いがけない災害をもたらすことも当たり前だというものだ。それが自然であり、災害も含めた自然(じねん)に対する信頼は、東北だけでなく全国の日本人に共通している。

 風光明媚(めいび)な日本列島は、同時に自然災害列島でもあり、長い歴史の中で日本人はそれを凌(しの)いできた。むしろ、大きな災害から復興する中で、新しい文化を築いてきた。たとえ破壊がもたらされても、そこから立ち直る文化を培ってきた。長い目で見ると、自然に対する信頼は失っていない。

 気仙沼湾のカキいかだは津波で流されたが、半年もたたないうちに魚や海藻が回復し、海底のごみが一掃されて、以前より豊かな海になったという。カオス的な状況が絶望につながらないのが日本人で、歴史的にもそうやってしなやかに生き抜いてきた。

 ――津波の被災地で従来より高い防潮堤の計画に住民から反対が出ている。

 巨大な防潮堤を造るのは防災の考え方からだが、そのため居住地から海が見えなくなると、人々の暮らしが海から分断されて、昔からの生活文化が失われてしまう。

 また、かえって自然破壊につながるのではないかとの疑問もある。海岸近くに巨大な人工物を設置すると、自然の復元力を阻害してしまう。テトラポットや防潮堤を設置した沿岸で、砂浜が失われている。

 そこで、減災という考え方で、防潮堤はもう少し陸側に、海が見える程度の高さで建設し、津波が来た時には高所に逃げるようにする。そうすれば、海側では砂浜が自然に再生するようになる。ある程度の被災は覚悟しながら、自然の復元力を削(そ)がないような防災設備にすべきではないか。もちろん、避難訓練や避難路の整備が重要になる。

 ――家族を亡くされた人たちには、その人のいのちも自分が生きるという思いが強い。いのちを個人のものではなく多くのいのちの集まりととらえている。

 肉体的、精神的な生命の奥に、スピリチュアルないのちがあると三次元的にとらえるのが日本人の生命観だ。私のいのちは先祖から子孫へとつながっているという感覚を持っているので、被災者たちが特に求めたのは、亡くなった人たちとのつながりである。ご遺体が発見されると、仏教や神道、キリスト教などの聖職者が奉仕し、手厚く弔いの儀礼を行った。被災地で僧侶が読経を始めると、地域の人たちが集まり、一緒に祈りをささげていた。

 在宅ホスピスに取り組み、震災後がんで亡くなった医師の岡部健氏は、「亡くなった後のことに医者は対応できない」と言って宗教者の協力を求め、東北大学に臨床宗教師の講座が生まれた。神職が被災地を祓(はら)い、浄(きよ)める奉仕をしたのも、スピリチュアルないのちと人々をつなぐ手だてである。

 ――お盆の習俗も日本人の死生観に基づいている。

 仏教では、死者は遠くの西方浄土に行くと教えるが、日本人は古来から先祖は近くの山などにいると思っていたから、浄土思想は受け入れながら、死者は近くにいて自分たちを見守っているとしてきた。比叡山や高野山に寺を建てたのは、山の上に仏国土があるとの考えからだ。そして修験道が山の霊性と人間のいのちをつないで神仏を習合し、今に続く日本人の霊性の土台を形成してきた。

 日本人の来世は現世と懸け離れたものではない。神道では現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)と言い、幽世は見えなくても同じ現世である。そのため、現世に祀られることで御霊が鎮まる。死者を現世に祀(まつ)り留めることでつながりを保ち、安心して暮らしてきた。

 そうした死者に対する儀礼を、家族を超え共同体として行うことで、地域社会が形成されてきた。

 東日本大震災からの復興における神社界の役割について薗田宮司は、①日本人古来の「いのちの森」を神々の座とする神聖観念に基づく神社境内の整備②地域コミュニティー再構築の要となる神社活動の推進③コミュニティー文化たる神社と神事祭礼の宗教性の自覚と啓発――の三つを挙げ、自らも先頭に立って被災神社の社殿や祭り、鎮守の森の再生などに取り組んでいる。奉仕している秩父神社は秩父地方の総鎮守で、有名な12月の秩父夜祭は同社の例祭。提灯で飾り付けられた山車の曳き回しで知られ、京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並ぶ日本三大美祭・三大曳山祭の一つである。