長崎原爆忌「たった一つの命だから大切に」
3歳で被爆の田中安次郎さん、平和の尊さを次世代へ
「たった一つの命だから大切に。戦争なんかでなくすことがないよう、過去を学び、未来をどう生きるか考えて」。3歳で被爆した長崎市の田中安次郎さん(79)は「二度とあんな時代が来ないよう、自ら考え行動する人になってほしい」と願い、修学旅行で長崎を訪れる小中学生らに平和の尊さを伝えている。
爆心地から3・4キロの自宅前路上で、祖母、妹と共に被爆。カメラのフラッシュを何万回も放たれたような青白い光を浴び、家に飛び込んだ途端に強い爆風を感じた。当時の詳細な記憶はないが、薄暗い空にオレンジ色の太陽がぼんやり光っていたのを覚えている。自宅にいた母の背中には無数のガラス片が刺さっていたと、後に母から聞いた。
戦後の生活は貧しく、その日食べる物にも事欠く日々を送った。原爆の影響からか、小さい頃から右耳が聞こえにくかった。皮膚も弱いため、かさぶたが手足いっぱいにでき、学校では嫌われたり仲間外れにされたりした。「被爆者の苦しみはいろいろある。私の場合はいじめだった。そういう苦しさを他の人に味わってほしくない」と話す。
偏見の目で見られるのを嫌い、被爆者であることを隠し続けた。原爆について詳しく知ろうとせず、家族に当時の出来事を語ることはなかった。
転機となったのは、定年退職後に長崎原爆資料館の駐車場で働き始めたこと。2004年春、落ち込んだ様子で座り込んでいた修学旅行中の中学生から「人間は何で戦争なんかするんですか」と尋ねられたが、何も答えられずにぼうぜんとした。「少し勉強しないといけない」と思うようになり、先輩から被爆体験や核兵器の恐ろしさを聞き、73歳で語り部活動を始めた。
「子供に夢と未来を語る被爆体験があっていい。そう思って毎日模索している」と話す田中さん。講話では子供と同じ目線に立ち、「今を大切に、人に優しく、自分に優しく生きること。それが平和だと思わんか」と語り掛けている。