「生涯職人」、老舗うなぎ店の金本兼次郎さん
敗戦から復興を見詰めた不屈の93歳、静かに聖火をつなぐ
200年以上の歴史がある老舗うなぎ店「野田岩」(東京都港区)の5代目、金本兼次郎さんは、たれの匂いが立ち込める厨房(ちゅうぼう)に立つと、きりりと表情が引き締まる。「生涯職人」を掲げるうなぎ一筋の93歳。「いい仕事をすれば必ず社会に必要とされる」。多くの困難を乗り越えてきた不屈の職人は22日、静かに聖火をつないだ。
1928年、8人きょうだいの長男に生まれた。先代の父の背中を追い職人の道に。生きたうなぎを扱う仕事は「割き3年、串打ち3年、焼き一生」と言われるほど奥深い。「焼き続けないと勘が鈍る。引退はありません」。年齢を重ねても、朝4時に起き仕込みに励む暮らしは変わらない。
「この世の地獄だと思った」という戦時中の記憶は今も鮮明だ。
45年3月の東京大空襲。家財道具をリヤカーに積み、疎開先の千葉県へ行く途中、見慣れない光景を見た。「マネキン工場でも焼けたのか」。目を凝らした瞬間、視界に飛び込んだのは折り重なって焼けた人々の遺体だった。家族を捜して歩く子供の姿もあった。
迎えた終戦の日。「これでゆっくり寝られる」。空襲に備えゲートルを脚に巻いたまま眠る、死と隣り合わせの日々の終わりを実感したという。
戦後、父とバラックで商売を再開した。食うや食わずの時代にうなぎ店に来る客は少なく、苦難の中で東京の復興を見詰めた。持ち前の明るさと、「目先ではなく将来に目を向ける」という前向きな気持ちは忘れなかった。
64年の東京五輪はテレビにかじりつき、「とんでもなく速かった」というマラソンのアベベ選手の走りに興奮した。再び東京で開かれる五輪の聖火ランナーには、4人の娘たちの勧めで応募した。「コロナで気持ちが沈む日本が少しでも華やかになれば」。どんな困難もきっと乗り越えていけると信じている。