婚姻まで「差別解消」というポリコレの視点で見た「グッとラック!」

◆伝統文化否定の運動

 筆者は本紙「記者の視点」(14日付)で、LGBT(性的少数者)支援団体が提出した請願に、一人反対した埼玉県春日部市議を批判したTBSの情報ワイドショー「グッとラック!」を取り上げた。この番組については、書くべき点がまだあるので、この欄でも触れたい。

 出演者たちは自覚していないのかもしれないが、その発言で気付かされたのは「ポリティカル・コレクトネス」(ポリコレ)のメディアへの浸透ぶりである。1980年代に米国で始まったポリコレは「政治的な公正」などと直訳されるが、分かりやすく言うと、差別的な言葉や制度をなくすという考え方だ。

 米国では、公的な場で「メリークリスマス」と言うと、宗教差別になるとして、「ハッピーホリデー」に言い換えるようになっている。今回の米大統領選挙で浮き彫りになった米社会の分断もその根底にはポリコレの過激化がある。この現象は日本も無縁ではなく、じわじわ広がっている。

 例えば、芸能界やメディアでは、「女優」という呼び方の背景には男性中心の見方があるとして女性にも「俳優」を使うようになっている。また、学校では「父母会」が「保護者会」に代わって久しい。要するに、ポリコレは差別解消を「絶対善」とする立場で、その過激化は、伝統文化を否定する危険な左翼運動である。

 同性婚を実現させようというLGBT運動もその流れの中にある。それを暗示したのが、「グッとラック!」の木曜レギュラーの弁護士、高橋知典氏の次の発言だ。「同性婚ができないことは、果たしてその一人の人間の人生の自由を奪っていないか、ということを私自身が考えなければいけない。要は、差別は春日部にないのではなくて、常にしているのではないかというのがこの議論の前提のはず」

 「差別は春日部にない…」の部分は、パートナーシップ導入などを求めた請願に反対した井上英治市議が市のいじめ相談窓口へのLGBT関連相談が過去5年間ゼロだったことを踏まえて「差別はない」と、議会で反対討論したことを受けての発言だが、「差別」を軸に据える高橋氏の問題設定こそがポリコレなのである。

◆他者に「正義」を強要

 ポリコレの影響が見られるのは高橋氏一人ではない。実は、井上市議が11日に開いた記者会で、TBSは「LGBT条例に反対すること自体がLGBT差別になるのではないか」という質問を出した。高橋氏の発言同様、反語を使って表現をオブラートに包んでいるが、差別のレッテルを貼ることによって、条例に反対する人間を萎縮させ、その主張を封じようとする狙いがうかがえる。言葉を換えれば、その言動は左傾化した「正義」の他者への押し付けであり、これこそがポリコレの危険性である。

 LGBTへの差別解消に「反対ですか」と問われて、それに同意する人はいないだろう。しかし、ここで考えなければならないのは、パートナーシップや同性婚の容認がどんな問題を生じさせるのかということだ。

 パートナーシップとは、同性カップルに対する行政の公認だが、その制度を導入したら何が起きるのか。支援団体は必ず同性婚の実現に運動をステップアップさせるだろう。なぜなら、パートナーシップだけでは「男女と同じ権利が欲しい」と望むカップルの「差別されている」という被害意識が解消されないからだ。

 だが、差別解消という視点だけで同性婚を導入したらどうなるのか。「一夫一妻」の崩壊はもとより婚姻適齢、重婚・近親婚の禁止などの「婚姻障害」の撤廃につながる問題が提起されるのである。逆の見方をすれば、わが国が同性婚を認めないのは、伝統的な家族制度を守り社会を安定的に発展させるためで、それは差別ではなく「合理的な区別」なのである。

◆形骸化する議会討論

 春日部市議会は井上市議一人を除いて請願に賛成した。しかし、その中の少なからぬ市議たちにLGBTについて深い理解や婚姻に対する洞察、そして社会を俯瞰(ふかん)した視座があったとは思えない。差別のレッテルを貼られることに臆したことによる賛成だったというのが筆者の見立てだ。メディアへのポリコレ浸透が、賛否両論あってしかるべき議会討論を形骸化させているのだ。

(森田清策)