戦後、教育勅語の廃止を執拗に要求したソ連に今なお追従する東京

◆国のため殉じた英雄

 戦後75年の夏が過ぎていく。振り返ってみると、「特攻」を扱わない新聞はなかった。先週紹介した読売の連載「戦後75年 終わらぬ夏」では児童文学作家の富安陽子さんの伯父が米空母エンタープライズに体当たりした特攻隊員だった(8日付)。改めて特攻の重みが伝わってくる。

 ジョン・F・ケネディ元米大統領の甥(おい)、マクスウェル・テイラー・ケネディ氏は『特攻 空母バンカーヒルと2人のカミカゼ』(ハート出版)で、バンカーヒルと同艦を大破させた特攻隊員をその生い立ちから丁寧に描く。特攻だけでなく空母でも艦を守るために多くの米兵が身を捧(ささ)げた。

 古来、他者のために殉(じゅん)じる人は英雄である。ウィンストン・チャーチルは古代ローマの詩「橋の上のホラティウス」を愛読した。圧倒的優位を誇る敵と直面したとき、勇気、自己犠牲がどれほどのことを成し遂げ得るかを讃(たた)える詩だ。

 「地上のあらゆる人間に 遅かれ早かれ死は訪れる。ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか」

 これをケネディ氏は「神風の戦略をも連想させる」と紹介している。特攻精神を回想するのもまた、戦後75年ではあるまいか。そんなふうに思いを巡らしていたら、東京の13日付社説に冷や水を浴びせられた。「教育勅語からの脱却 『子どものための国』に」と題し、国に殉じる人を忌み嫌っていた。教育勅語は敗戦直後に失効し、脱却するもしないもすでにないのだが。

◆勅語は普遍的な徳目

 東京は「(勅語は)『一旦(いったん)緩急アレハ義勇公ニ奉シ』と、国の一大事には身をささげて皇室国家に尽くすことを求めており、軍国主義教育の精神的な支柱」と断じ、「国のために身をささげる、つまりは『国のための子ども』をつくり上げていくことが究極の目的となっている以上、民主主義とは相いれません」と拒絶宣言する。

 どうも捉え方が歪(いびつ)だ。勅語は父母への孝心や兄弟愛、夫婦の和合、友情、ために生きる、遵法(じゅんぽう)精神、危急の際の義勇心など12の徳目を説いている。GHQ(占領軍)は国家神道を否定した「神道指令」(1945年12月)で当初、使用禁止条項に入れたが、後に削除し軍国主義と認定しなかった。それほど普遍的な徳目だったからだろう。

 東京は国家に忠誠を尽くすことが軍国主義のように言うが、米国では公式行事で「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います」と唱和する。

 米国独立戦争の英雄に21歳のネイサン・へイルがいる。彼は戦いの劣勢を挽回すべく、イギリス支配地に潜入するも発見され処刑された。その時、「私が残念でならないのは、私の国のために捧げる命がたった一つしかないことだ」と語った。この言葉は今も米国民の心を捉えて離さない。

 いずれの国も国家のために生命を捧げた人はその国の英雄として尊敬され、国はその功を顕彰する。各国の元首らが公式訪問する際、無名戦士の墓を訪問し献花するのが習わしだ。東京の主張を真に受けて国のために身を捧げた人を軽んずれば、軽蔑され、時には罵倒されるだろう。

 ところで米国は教育勅語を問題視しなかったが、ソ連が日本の精神的骨抜きを狙って執拗(しつよう)に廃止を要求し、これに追従した朝日や共産勢力が一斉に廃止論を唱え、これに米国も屈して失効に追いやられた経緯がある。

◆再評価の動きは自然

 安倍内閣が2017年に教育勅語について、「憲法や教育基本法に反しない形」で教材として使用を認める閣議決定をしたのは、至極自然なことだ。そうした再評価の動きに東京は釘(くぎ)を刺すのだが、国家に身を捧げる人々が存在しないで誰がいったい「子どものための国」を守るのだろうか。東京はいつまでソ連(共産主義)に追従するのか。

(増 記代司)