戦後75年、事実辿ることに比重置く読売と歴史修正主義の色濃い朝日
◆「語り継ぐ」意気示す
「戦禍 次代へ語り継ぐ」。戦没者追悼式を伝える読売16日付の1面トップ見出しである。終戦75年、節目の年。コロナ対策の自粛が続く異例の「追悼の夏」となった。
語り継ぐ。その読売の意気を感じさせたのが8月1日付から始めた「戦後75年 終わらぬ夏」と題するシリーズだ。「終戦から75年の時が経(た)った。戦争体験を聞くことが難しくなった今こそ、あらためて記憶を語り残してもらい、語り継がねばならない。『戦争を考える夏』はこれからも続く。終わることはない」と前文で言う。
1日付は作曲家・古関裕而の長男、古関正裕さんで、「『露営の歌』にじむ哀感」。1面肩のインタビューは中面に続き、見開き2ページで「世相をたどる古関メロディー」と時代背景を描く。「エール」人気の時流に乗った感がしないでもなかったが、それは邪推。15日付まで掲載されたシリーズはいずれも1面から中面の見開き2ページへと続き、読ませた。
9日付「長崎 平和祈る『健康美』」は、平和祈念像モデルとされる吉田廣一(ひろいち)陸軍大尉の次女、井上潤さんが語る。「長崎の鐘」のモデルは有名だが、記念像にもおられたとは知らなかった。12日付「歓喜の京城逃れ密航」は女優の有馬稲子さん。これには満州から朝鮮半島を経て引き揚げてこられた藤原ていさんの名作『流れる星は生きている』を彷彿(ほうふつ)させた。
最終回は15日付の京都産業大学名誉教授・所功さんの「30年越し連れ帰った『父』」。これも圧巻だった。この日は終戦記念日とあって中面は3ページで「戦争の記憶継承」を問うている。どの回にも読者投稿を再掲した「気流で読む戦争」(気流は読売の「声」欄の名称)に加え、担当記者の顔写真とコメントもある。語り手も聞き手も隠れず語り継ぐ。そんな思いが伝わってくる。
読売グループのトップ、渡辺恒雄氏が11日深夜に放映されたNHKスペシャル「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」で、94歳と思えぬかくしゃくとした声で「戦争の無謀さ」を語っておられた。戦争モノを扱っても読売の記事は角が立たない。それは事実を辿(たど)ることに比重を置き、今日的価値観を押し付けないよう心掛けているからではあるまいか。
◆「朝日」の名前を隠す
これに対して朝日はそうはいかない。14日付夕刊の1面に「戦後75年」のロゴ入りで「本土決戦 新聞が指南した/九州で発行『防衛新聞』見つかる」との記事が載った。敗戦直前、米軍の上陸を想定し、九州の住民に戦車への火炎瓶攻撃やゲリラ戦のやり方を解説した「防衛新聞」が見つかったというのだ。
本格的防衛都市のイラスト図と「落下傘には蛸壺壕から手榴弾を投げ、竹やりで突け――」のスローガンが紙面を飾っており、本土決戦への備えがリアルに知れた。本文には「防衛新聞は1945年4月18日、(九州などを担当する)朝日新聞西部本社が創刊。陸軍の西部軍管区司令部、海軍の佐世保鎮守府、地方官庁が作る九州地方防衛本部の指導のもと、毎月8、18、28日の3回発行した」とある。
思わず「朝日新聞西部本社」に目が釘(くぎ)付けとなった。「本土決戦 新聞が指南」の見出しを掲げていたが、その新聞とは朝日にほかならなかった。「朝日が指南」とせず、「新聞が指南」とは、まさに朝日隠しである。記事には朝日の元編集委員、藤森研氏(元専修大学教授)が「戦争末期、新聞が軍部と完全に一体化し、丁寧な広報役となっていた様子が色濃く出ているとても貴重な資料だ」との解説もある。ここでも朝日とせず新聞が軍部と一体化だ。
◆過去を都合よく解釈
なぜ隠すのか。小さな「修正」のようだが、こうした修正はやがて自分のイデオロギーで過去の出来事を都合良く解釈しようとする大きな修正、すなわち歴史修正主義に至る。読売と違って朝日の戦後75年に角が立つのは、そうした歴史修正主義が色濃く出ているからである。
(増 記代司)