歴代“進歩派”指導者の対日観 国益のために日本を利用
追及より理解と開放で接近
日韓関係が手の施しようもないほど悪化の一途をたどっている。解決の糸口すら見つからない。中央日報が出す総合月刊誌「月刊中央」(4月号)が「進歩設計者が眺めた日本」と題して、歴代の“進歩派”指導者らがどのような対日観を持っていたかを振り返っている。
この記事が出た頃の韓国では、京畿道議会の「日本戦犯企業ステッカー添付義務化条例」や、ソウル市議会の「日本製文房具機器禁止条例」、全国での「日帝時代校歌の作り変え」キャンペーンなど、常軌を逸した排日が進んでいた。
これは文在寅(ムンジェイン)左派政権が進める「積弊清算」の一環としての「日帝残滓(ざんし)清算」と位置付けられたものだが、さすがに大衆の支持を得るには至っていない。政権を“忖度(そんたく)”した極端な反日が許される雰囲気が伝わってくる。
そうした状況で同誌は「日帝強制占領期間から最近まで韓国的進歩の命脈を受け継いできた主要政治指導者らの日本観からヒントを得よう」としてこの企画を組んだ。冷静になって、文政権は進歩左派の先人たちの声を聞け、という主旨である。
「民主党の正統性を守ってきた巨木ら、いわゆる“進歩の設計者”」の言行を調べた結果は「驚くべきだった」と同誌は言う。「共通点は極めて冷徹な見解で韓日関係を眺めたということだ。国益のために日本を利用するのに躊躇(ちゅうちょ)しなかった」と。
まず「進歩の父」といわれる独立運動家の申翼熙(シンイッキ)(1911~51年)。李承晩(イスンマン)と大統領選で争った彼は、「もし大統領に当選したら日本指導者らと会談する用意がある」と発言して、「親日派」のレッテルを貼られたこともあった。
彼は、「旧敵(怨讐(おんしゅう))を追い出して国を再び取り戻すには、無為に感情だけに流れず、開化進歩した日本に行って習い、それに勝って立ち上がらなければならない」と力説した。「現実主義に基づいた彼の長い間の哲学の産物」と同誌は評価している。
申に続き1960年の大統領選に出た趙炳玉(チョビョンオク)(1894~1960年)も「日本を適切に利用するのがわれわれの利益になるという信念を持っていた」という。それだけでなく、1948年時点で「世界の大勢は敗戦国の日本といっても反共陣営の重要な一翼を担うと認めて…(略)友好国になることもできる」としている点に彼の先見性が見て取れる。
進歩左派の指導者として最も良い対日関係を築いたのは金大中(キムデジュン)だ。左派に限らず軍事政権や保守政権を含めた歴代大統領の中で、最も良好な日韓関係を持てたのが“韓国初の左派大統領”だったのは歴史の皮肉でさえある。
同誌は「金大中が持った日本観のまた一つの特長は日本に謝罪と反省を強要するより、自発的に反省に出るよう誘導したという点だ」と指摘する。
北朝鮮に対して力の対決をするよりも、相手を包容していく「太陽政策」を取ったように、日本にも追及より理解と開放でアプローチしたことが成功のカギだった。
彼は韓国民の反対の中で日本文化解禁を断行した。結果は韓国が日本色に染まるどころか、日本に「韓流」を巻き起こした。小渕恵三首相との「日韓パートナーシップ共同宣言」(1998年)は戦後日韓関係の金字塔とも言えるものだ。
金大中を継いだ盧武鉉(ノムヒョン)も基本的にはこの路線を継承した。だが、政権運営が厳しくなってきた時点で、反日カードを切る誘惑には勝てなかった。それが彼の弟子である文在寅に引き継がれてしまったのは残念である。
見方によれば、政治と経済を分けて扱う「ツートラック」は先達の「用日」(日本を利用する)にも通じるものがあるが、冷戦が終わり、安保的要請から民族感情が抑えられてきた時代は過ぎ、左派民族主義が解き放たれた状況で韓国はコントロールを失っているとも見える。
国同士の取り決めや過去の経緯を一切無視して「積弊清算」だけを推し進める文政権は「民主の先達」の声を聞く余裕があるのか。
編集委員 岩崎 哲





