裴振栄記者の「日本の歴史紀行」

明治維新評価の裏に政権批判

 日韓関係が1965年の国交正常化以来最悪と言われる中で、日本を訪れる韓国人観光客が史上最多となった。日本を貶(おとし)め世界で反日を叫ぶ一方で、その国を訪れて文化を楽しむという心理はなかなか理解しにくいが、ここにこそ韓国人のアンビバレントな心理が込められている。

 「月刊朝鮮」(2月号)に同誌の裴振栄(ペジンヨン)記者が大分県中津市を訪ねた旅行記を載せている。同記者は「日本の歴史紀行」として、この他にも山口県萩、京都などを訪ねたり、坂本龍馬ゆかりの地を回ったりして、明治維新と日本の近代化を成功に導いていった人材、彼らを育んだ風土などに焦点を当てた旅行記を書いている。

 これらの地は同時に韓国側から見れば「恨み」多い人物を輩出したところだ。長州萩は韓国人が最も嫌う初代朝鮮総監・伊藤博文や日韓併合を断行した山縣有朋、米国が朝鮮の植民地化を承認した桂タフト協約を結んだ桂太郎、さらには彼らに絶大な思想的影響を与えた吉田松陰を生んだ地である。

 これらを回りながら裴記者は当然ながら「どうして朝鮮は植民地化されたのか」に思いを巡らせた。公平に歴史を眺める目があれば、韓国人にとっては不愉快ではあろうが、結論は簡単に出る。「日本には備えがあり、朝鮮にはそれがなかった」ということだ。「備え」と文字にすれば簡単だが、圧倒的な欧米の力(軍事的、経済的、文化的)を前にして、それに日本が対抗もでき、吸収もできたのは歴史的に蓄積された日本人の資質と文化力、民族性があったからだ。それを確かめる旅は裴記者や韓国の読者とって悔しいものとならざるを得ないだろう。

 今回裴記者が訪れた中津は福沢諭吉ゆかりの地である。福沢が明治日本の“開明知識人”の代表であり、「時事新報」を創刊し、慶応義塾を創設し、「西洋事情」「学問のすすめ」等数々のベストセラーを書き、何よりも西欧の近代社会科学の用語を翻訳して漢字に置き換え、概念を伝えた人物であると紹介している。

 福沢諭吉といえば、韓国人にとって日本に来て最初に目にする最高額紙幣の肖像であると同時に、「脱亜論」で「亜細亜の悪友を心に於いて謝絶する」として朝鮮を切って捨てた「帝国主義的イデオローグ」としての印象が強いが、裴記者が中津を訪れ福沢を紹介したのは、そのような韓国人の皮相的理解を改めるためのように見える。

 福沢の功績は日本にとどまらず、当時の東アジアに及んでいた。いの一番に挙げなければならないのは、韓国のみならず中国など漢字文化圏の後発国が福沢が翻訳した「民主主義」「文化」「自由」など膨大な用語をそのまま概念とともに使用していることだ。彼の翻訳によって各国がどれほどたやすく西欧科学を導入できたかを考えれば、その文化的功績は巨大である。

 だが韓国でも知識人を除けば、自らが使っている社会科学用語の大半が福沢の翻訳であることを知る人は少ない。この事実を知らせるのは、韓国の子供たちに「ドラえもん」が日本のアニメであると伝えるようなもので、自国のものと勘違いしていた彼らは大きな衝撃を受けることになる。

 さらに、福沢は朝鮮の植民地化を支持したわけではない。むしろ開化派の金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)らを支援し、朝鮮の開化を助け、中国とともに欧米に対抗し得る近代化を成し遂げようと促したが、それは各地で頑迷な旧勢力によってつぶされた。裏切られた思いの福沢が「亜細亜の悪友を謝絶し」ひとり日本だけでも立って行こうと見切った理由である。

 裴記者は「当時の朝鮮の状況を考えれば、福沢だけが悪いと恨むことはできない」と書いている。そして「当時と今は状況が似ている」とも述べる。日本(や米国の)呼び掛けに耳を貸さず、北朝鮮の“文化戦略”に籠絡(ろうらく)され、結果、東アジアで核の危機を高めて、自らの生存も危険にさらす愚に気付かない韓国政府を当時の状況と重ね合わせてみているのだ。

 韓国で日本の幕末・明治維新を評価する裏側には政権への批判が込められている。日本へのアンビバレントな思いの理由がここにある。

 編集委員 岩崎 哲