韓国の事大外交、情勢を見誤る小中華意識

教訓残した清、日本の興隆

 米国とは軍事同盟を維持しつつ、中国とも「戦略的パートナーシップ」を模索する韓国は難解な外交方程式を解かざるを得ない立場だ。韓半島が周辺に強大国ばかりを配した地政学的位置にある以上、歴史的に避けられない宿命のようなものである。

 だが、韓国が歴史的に持ってきた「小中華」意識は、時に周辺情勢の分析を誤らせてきた。

 「朝鮮500年の歴史で最も屈辱的な事件」とは、豊臣秀吉による「朝鮮出兵」すなわち「壬辰倭乱(文禄の役、1592年)」ではなく、「丙子胡乱」だという。これは1636年、清朝が朝鮮に侵入し制圧した戦いだが、この時の降伏の儀式は、朝鮮の王が平服を着て、清のホンタイジ(後の太宗)に対して「三跪九叩頭の礼」を行って降伏し(「三田渡の屈辱」)、以後、臣下となることを誓わせられる、という苛烈なものだった。

 なぜこれが「最も屈辱的」だったのかというと、「三田渡の屈辱」ばかりではない。降伏した相手が「胡」だったからである。清は東北部の女真族から起こった王朝だ。中原の正統な漢族の王朝ではない。“中国が滅び”正当な「中華」を継承するのは朝鮮のみとなった、という意識がつまり「小中華」である。継承者である朝鮮が蛮族に屈することは、当然大きな屈辱と考えられた。

 「月刊朝鮮」で連載されている「人物で見る韓国外交史」は6月号で「崔鳴吉(チェミョンギル)」を取り上げた。崔鳴吉(1586~1647)は「丙子胡乱から朝鮮王朝を救った」人物として記憶されている。三田渡の屈辱を乗り越え、「事大外交」で朝鮮王朝を存続させた“現実的外交”を推進した。

 朝鮮はこの二つの国難を「倭乱」「胡乱」と捉えている。同記事の著者、張哲均(チャンチョルギュン)元スイス大使は、「国難を単純に胡乱として片付ける歴史認識に対しては検討する必要がある」と述べている。王朝が存亡の危機に直面していたことに対して、たかだか蛮族による「乱」程度に見ていたことに疑問を呈しているのだ。

 この戦争は「東北アジアの覇権国家に浮上した清が朝鮮に侵攻してきた戦争」であった。しかし、朝鮮は小中華の意識故に国際情勢を正確に読むことができなかったのだ。

 朝鮮は丙子胡乱の前に文禄・慶長の役を体験している。日本の軍事力と豊臣政権の力を見くびり軽視したため、侵攻に対処できず大敗を喫した。明の応援がなければ、朝鮮は滅びた可能性さえあった。

 「日本の興起は韓半島をめぐる東北アジアの勢力関係が変化していることを知らせる契機となった」にもかかわらず、この教訓は生かされなかった。明を倒し、朝鮮に臣従を要求してきた清の国力を理解しなかったのだ。この時も小中華意識が目を曇らせたのだろう。

 朝鮮を救った崔鳴吉に対して、王朝内の評価は「交錯したものだった」と張元大使は書いている。強大国清に屈し臣従して生き延びたことを「姑息」と蔑む声があったのだ。彼の現実主義が理解されない風土が朝鮮貴族の間には根強くあったということである。

 後に、明治維新を成し遂げた新政府が朝鮮に新政府樹立を伝え、国交を求めたことに対して、朝鮮側はこれを拒否する。この時も、朝鮮は大きな国際情勢のうねりを理解していなかった。

 同誌が崔鳴吉を取り上げた背景には、たとえ「姑息」といわれようが、いま韓国に必要なものは現実的外交だとの判断があるからだろう。その「事大外交」の相手が米国か中国かで揺れてはいるが……。

 編集委員 岩崎 哲