タイ暫定政権、王妃親衛隊グループが台頭

 5月のクーデターでタクシン元首相派政権を打倒したタイ軍事政権のプラユット暫定首相(陸軍司令官)は先月末、閣僚名簿を発表した。首相と閣僚33人のうち約3分の1を軍・警察関係者が占め、軍政色が鮮明となった。軍部が政治の舞台に出てきたのは、2008年のクーデターでタクシン派を封印できなかった“失敗の轍(てつ)”を踏まないためだ。(池永達夫)

「王制護持」掲げたクーデター

背後に国王後継者問題?

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8月25日、バンコクの陸軍本部で、国王の肖像を仰ぎ見るタイのプラユット暫定首相(AFP=時事)

 プラユット暫定首相は12日、立法議会で所信表明演説を行い、汚職対策など改革を推進させる意向を表明。さらに「王制はタイの立憲君主制における最も重要な構成要素」と述べ、「王制護持」のため、王制に「悪意」を抱く者たちには法的措置も辞さないと強調した。

 軍部が暫定政権の表に立ち、「王制護持」の旗を振るのは歴史の教訓によるところが大きい。

 8年前のクーデターではタクシン首相を政界から追い落とすことには成功したものの、権限を早々と移譲したことで、タクシン派の政治的影響力と勢いを止めることはできなかった。その“失敗の轍”を踏むようだと、王制下の民主主義というタイ政治の伝統が崩れかねないとの危機感がある。

 そのため今度こそ、タクシン派の復権を許さないような、選挙システムを含めた政治制度やタクシン派の政治基盤であるタイ北部や東北部の農村の囲い込みなど、あらゆる手だてを駆使してタイの政治風土を変えてしまうのが狙いだ。

 言うまでもなく、タイ国民にとってプミポン国王は掛け替えのない存在だ。タイ国民は国王を「大地の父(ポー・クロン・ペン・ディン)」と呼ぶが、その敬愛の念ばかりでなく、国の混乱時には自ら先頭に立って治め、難局を打開してきた実績がある。

 そのプミポン国王の政治的影響力の強さと英明さを世界に知らしめたのが、1992年に国軍と民主化運動グループの間で起きた「5月流血事件」だった。

 同年春、スチンダ国軍最高司令官が「自分は首相にはならない」と公約していたにもかかわらず、首相に就任したことで、バンコク元市長のジャムロン氏を先頭に退陣を求めるデモが激化、鎮圧に乗り出した軍の発砲で市民44人が死亡する「5月流血事件」で国が揺れた。見かねた国王は5月20日、スチンダ首相とデモ指導者ジャムロン氏を王宮に呼び「このままだと国が亡ぶ。がれきの山の上で勝利の旗を振って意味があるのか。デモ隊は家に帰れ。軍は兵舎に帰れ」と諭し、騒乱を一夜で収めたことは今でも語り草だ。記者も当時、現場に居合わせたことから、その印象は強いものがある。

 ただ、国民の敬愛を一身に集め、英明な国王であるプミポン国王も、寄る年波には勝てない。最近は高齢による健康不安を抱え入退院を繰り返している。

 8年前、バンコクで行われた軍主催の国王誕生祝賀式典で、プミポン国王は側近に抱えられるように高座に上がっている。またプミポン国王自身、演説で「気力はあるが、衰えた」と率直に述べ、国民を驚かせた経緯がある。

 なお国王の後継者問題が浮上している中、今回のクーデターと関連付ける識者がいる。

 目を付けているのはシリキット王妃親衛隊OBらで作る軍内部の最有力派閥「東の虎」グループの台頭だ。そもそもプラユット暫定首相そのものが「東の虎」グループの中心的人物だし、副首相兼国防相に就任したプラウィット元陸軍司令官や内相に就任したアヌポン元陸軍司令官も「東の虎」グループだ。

 王位継承権を持っているのは長男のワチラーロンコーン王子と次女のシリントーン王女の2人だが、巷(ちまた)に流れているうわさによるとプミポン国王は国民に人気のないワチラーロンコーン王子よりシリントーン王女を推したい意向であり、シリキット王妃はワチラーロンコーン王子を推したい意向だという。

 どちらが王位を継承するにしても、すんなりいきそうにもないが、政治的混乱収拾という名目で敢行されたクーデターに、王室の後継者問題が一枚かんでいたとすれば事は厄介だ。