日本・トルコ友好125周年、合作映画『海難1890』
和歌山・串本町で毎年慰霊祭
田中光敏監督に聞く
今年は日本とトルコ友好125周年を迎えたが、両国の友情は明治23(1890)年に親善使節として訪日したトルコ軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町沖で遭難した際の地元民の懸命な救助から始まった。それから95年後の昭和60(1985)年3月、イラン・イラク戦争下にテヘラン空港で帰国便のあてがつかない日本人二百人余に、トルコの人々が自国救援機の座席を譲って助けたのである。二つの史実をリアルに描いた日・土合作映画『海難1890』(12月5日公開・東映配給)の田中光敏監督に、両国の友好と映画について聞いた。
(聞き手=編集委員・堀本和博)
名もなき人たちの善意/目の前の人助ける熱い思い描く

たなか・みつとし 昭和33(1958)年、北海道・浦河町生まれ。大阪芸術大学卒業。「化粧師KEWAISHI」平成13(2001)年で映画監督デビュー。「利休にたずねよ」平成25(2013)年で、モントリオール世界映画祭ワールドコンペ部門で最優秀芸術貢献賞、第37回日本アカデミー賞優秀作品賞など9部門で受賞。
――監督は北海道(浦河町)の自然豊かな大地で生まれ育ち、それが今回の作品に何か影響を与えていますか。
田中 やっぱり、自分で光や風景を撮影する時は、まず北海道の風景が思い浮かぶ。映画の中で夕日を撮ってくださいと言われると、太平洋を照らしながら山側に落ちていく夕日を想像する。今回も大島樫野、そして吉野熊野国立公園で(嵐の中を)35㍍40㍍の断崖絶壁の中を必死で下りてくる村人と、一夜明けるとものすごく透明度のある美しい海を抱えた自然に一変する。そこに小さいときに経験した光、生活感がある。雪の中を歩きながら毛糸の帽子と着ているものの目の隙間から見える北海道の風景、その中の体温とか息遣いとかは今でも覚えています。
――初めから映画監督になろうと。
田中 大学を卒業するころは、映画業界が衰退してテレビ全盛の時代です。それで今の電通テックで、CMディレクターから入っていった。映画界デビューは社会に出て15年経(た)ってからでした。
――『海難1890』は、最初に串本町長からトルコ軍艦「エルトゥールル号」海難事故の話を聞かれたのがきっかけと聞きましたが、それまでトルコについての印象は。
田中 世界史で習った、屈強な男たちと領土を広げていくっていうイメージしかなかった。トルコの人たちからは、すごく前に時間が止まっているなと笑われます。実際行ってみるとイメージと全然違った。世界各国でトルコ人同士が会っても、互いにトルコ人だと認識できないほど目が青かったり金髪だったりする。
――串本町長から10年前に1890年のことを聞いた時、監督は1985年のテヘラン空港邦人救出で、トルコの人々が自国からの救援便の席を帰国便のあてがない日本人に譲ってくれたという話をご存知でしたか。
田中 いいえ、知りませんでした。今から5年前に串本町で日本トルコ友好120周年記念式典のパネルディスカッションの時です。2人の男性が壇上にまできて60歳を超えた方が「ありがとうございます」と言い、泣き出した。「私たちは1985年、テヘランで命を救われた者です」と。「あなたたちの祖先が120年前にトルコの人たちの命を救ったから、今私たちの命はここにあるんです」と言ったのです。それは映画のワンシーンを見ているような光景でした。
――では串本町の人たちも、それまではテヘランのことは知らなかった?
田中 いいえ、知っていました。彼らのすごいところは、125年前にエルトゥールル号のトルコの方を救出して、あの樫野崎に慰霊碑が建っている。125年もの間、村では必ず一年に1回供養している。それをトルコの人たちはネットとかで知り、互いに受け継がれているのです。
120周年の時、県知事や皆でトルコに行くことになり、トルコ航空に乗った。Aの01番というファーストクラスの一番前の席は串本町長のための席でした。こういう風に名もなき人たちの125年前の善意や行いが国と国を結び付け、日本とトルコの友情・友好をつなげているのかと感じた。
――映画ラストのトルコ首相のセリフはそういう意味でしたか。
田中 あの役者をオーディションで見たときは、喜劇役者かと思った。そっくりさんです、オザル首相に。オザルさんはトルコの人たちに尊敬されているから、皆さん泣きながら彼に握手しにくる。
事実を物語にする時の強さというか、救出劇編でパイロットの後ろを歩いてくるキャビンアテンダントが2人いますが、リハーサルの時1人が泣きながら来たんです。聞くと、もう一人が、実は彼女の母親は1985年の日本人救出機のスチュワーデスですって。母親から私の代わりに出なさいって言われて来たって言うんですよ。事実だからつながる話がいっぱいあります。
――作品は両国の人々の真心がしっかり描かれています。国際合作の大作は、えてして大味なものになりがちですが、どう克服されましたか?
田中 内野聖陽さんや忽那汐里さんはじめ出演者の皆さんにお伝えしました。我々が描きたいのは「伝説に弱者あり」というように、名もなき人たちの善意、目の前に困っている人たちがいたら助ける、その民衆たちの熱い思いです。それが伝わらないとこの映画は成功しない。名もなき人たちの善意。この物語は日本とトルコの友情を友情で返す、プラスの連鎖だと思う。そこをしっかり描くのが僕たちの映画のテーマで、そこは絶対にぶれないでほしいと。
あとはしっかり取材を重ねていきました。黒海で出あった老人2人はエルトゥールル号で亡くなった方と生き残った方の遺族でした。2人はどちらかに何かあったら、どちらかを家族として引き取ろうと約束した。2人は120年経った今、同じ屋根の下で大家族で暮らしている。映画の中で、ベキールとムスタファがガラスの小瓶を受け渡して最後まで持っていくシーンがある。映画はエンターテインメントだが、できるだけ史実の中にある登場人物とかはその時どう思ったか、何を残そうとしたか。そこは真実を描きたい。
――この作品は約1世紀の時間と9千キ ロの距離の隔たりを超えて結ばれた恩返しをテーマに、透徹した視点で極めてリアルに描かれ、いくつものシーンで心を揺さぶられます。
田中 僕が感謝しているのは、例えば大島樫野の海難事故が起きた現場で、撮影できたこと。大島とか串本の人たちがエキストラで参加してくれる。おじいさんおばあさんから実際に話を聞いた200人もの人たちが、トルコ人に手を振るシーンに参加してくれる。リハーサルから泣いているんですよ。
そういう思いのある人たちが手を振るっていうことが、スクリーンを通じて思いが出てくると思うんですよ。同じようなことがラストシーンに出た700人のトルコの人たちは教科書でエルトゥールル号の話を学んでいた。彼らは感謝して出ているんですね。
――試写室の画面で見ても、特撮シーンはものすごいものでした。
田中 トルコの映画界は100年続いているが、実は船の特撮シーンを撮るのは初めて。東映は特撮の実績、歴史のある会社です。そういう現場をトルコの人たちが見学に来て特撮の道具作りから始めたんです。水が甲板の上にドーンと落ちてくるシーン。日本ではコンピューターで時間差で2㌧、2㌧でドンドーンって落ちるようにする。トルコでその道具を作ってもらうと、トルコの人は大は小を兼ねるみたいなところがあって、見せられたのは高さ8㍍で、1機4㌧ですよ。そうすると8㌧の水が4機だから計32㌧の水が甲板に落ちてくる。ものすごい迫力で、結果、映画の中で生きている。日本じゃあんな迫力のあるシーンは撮れません。
――「利休にたずねよ」では本物の茶器にこだわられたが、今回の作品で一番こだわられたことは?
田中 やっぱり「リアル感」ですね。例えば、後半のテヘランに関してはクレーンに乗っていても(カメラは)オールハンディですね。前半後半の撮り方、日本とトルコでは撮り方は変えてリズムとかリアル感を考えてやりました。それと100年を隔てた時間の飛び方。その表現の仕方にはいろいろ細工をしています。きっと皆さんの心に届くと思います。