倉田百三と西田天香 名作『出家とその弟子』を生む

一燈園・燈影学園長 相 大二郎氏に聞く

 倉田百三が大正7年に岩波書店から出した戯曲『出家とその弟子』は青年たちの共感を呼んで大ベストセラーとなり、各国語に翻訳されロマン・ロランも絶賛した。親鸞と弟子唯円の愛と罪をめぐる葛藤を描いた同書は、倉田の一燈園の体験が基になったという。そこで、倉田と西田天香との出会いを、相(あい)大二郎燈影学園長に伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

倉田の一燈園体験が基に/真実の愛の確信得る
求道者に知られた一燈園/真の道場は奉仕の現場に

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 ――倉田百三が一燈園に来た経緯は?

 倉田百三は明治24年、広島県庄原市の生まれで、家は豊かな呉服商だった。明治43年に上京して第一高等学校文科に入学し、哲学を学んだ。同期生に芥川龍之介がいる。倉田はショーペンハウエルや西田幾多郎に引かれ、宗教に関心を持つようになり、『校友会雑誌』で「宗教は自己に対する要求である。自己を真に生かさんとする内部生命の努力である」などと論じている。

 ところがその後、倉田は妹艶子の同級生だった逸見久子と恋愛関係になり、学業も捨てて盲進する。しかし、逸見家が進めた久子の縁談で恋は破局を迎え、失望した倉田は、結核になったこともあって一高を退学し、須磨に転地療養した。

 大正3年に庄原に帰った倉田は、郊外で独り暮らしを始め、教会に通ってキリスト教を信仰するようになる。その後、結核で広島病院に入院した倉田は、教会の依頼で見舞った神田晴子から慕われるようになるが、性と罪の問題で悩んでいた倉田は、それを拒絶している。

 倉田が一燈園を開いた西田天香のことを知ったのは、友人で宗教思想家の綱島梁川(りょうせん)の文章による。一燈園の名称は綱島の著書『一燈録』から取られた。

 天香が無所有と奉仕の一燈園生活を始めたのは明治37年、トルストイの『わが宗教』を読み、「本当に生きようと思えば死ね」という言葉に感動したのがきっかけ。大正2年、京都・東山の鹿ケ谷にある婦人から一棟の建物を捧(ささ)げられ一燈園と名付けて同人(弟子)たちと共同生活を営むようになった。綱島はそのことを雑誌に紹介した。

 ――当時、一燈園は道を求める人たちに広く知られていたのか。

 多くの宗教家や思想家、芸術家など後の時代に登場する青年たちが一燈園を訪れた。宗教家では今岡信一良(日本自由宗教連盟・東京帰一教会会長)や高橋正雄(金光教学院長)、谷口雅春(生長の家創始者)、山田無文(花園大学学長)、学者では高田保馬(経済学)、佐古純一郎(文芸評論家、牧師)、詩人の尾崎放哉、山村暮鳥、陶芸家の河井寛次郎などで、大正デモクラシーの時代を感じる。

 道を求めて入園を希望する青年に、天香は「ここは悟りを得るところではない。自分を棄てに来るところである」とし、「死ねますか」という問いを投げかけ、一燈園は道場に至る門であり、本当の道場は奉仕を実践する「路頭」にあると教えた。私の父武次郎もその頃入園し、天香に「空華」と名付けられた。谷口雅春の『生命の実相』には父のことが書かれている。

 ――柔弱で病身の倉田には耐えられそうにないが。

 24歳の倉田が一燈園に来たのは大正4年12月、多くの青年たちと同じで、やや場当たり的な決断だったと思う。その後、倉田は健康上の理由で翌5年1月に一燈園を離れ、近くに下宿しながら訪ねてきた神田晴子と同棲し、一燈園にも出入りしていた。同年6月には姉の危篤の報を受け帰郷したので、一燈園に直接的に関係したのは約半年だった。

 ――倉田は若者らしい、性と愛、罪の問題で悩んでいたようだが、天香はそんな彼にかなり厳しく接したようだ。

 天香は男女の愛についてかなり厳格な人だった。家や財産も持たない夫の新しい生き方についてゆけないノブ夫人は実家に帰ったが、真剣に道を求める40歳の天香の周りには若い女性も多くいた。

 その一人、藤田玉は天香の幼友達で貴族院議員の下郷伝兵衛の「思い者」でありながら女手一人で両親と病身の弟を養っていた。時々、みすぼらしい姿で下郷を訪ねてくる天香に、当時32歳の玉は心惹かれてゆく。これは私の想像だが、玉はある日その思いを天香に打ち明けたのではないか。

 そんな玉に天香は、次のような漢詩に当時著名な画家であり一燈園同人でもあった柳敬介の描いた「壺と侘助」の絵を添えた色紙を渡している。「人謂壺中玩、不関花自真」(人は謂う壺中の玩、関せず花自ずから真)つまり「わしの所へ来ても自分は無一物である。あなたは周囲の噂を気にせずに下郷の庇護で家族を養い、あなたの花を咲かせなさい」と。

 玉はその色紙を神棚に供え、三度の髪結いを一度に減らして節約し、東山鹿ヶ谷に一棟の家を建て、路頭が住処の天香に捧げた。それが「一燈園」の始まりである。一人の女性が心から救われるのは、それほど大きなことであった。

 その後、天香は独り身でいると女性たちを惑わしかねないので、大正2年別居中のノブと協議離婚し、奥田勝(後の照月)と再婚した。

 この奥田勝は天香が以前に出入りしていた京都木屋町のお茶屋の養女で、次のようなやりとりで天香に思いを打ち明けたという。「あなたについて行きとうおます」「わしは無一物やから一緒になってもあんたを養えん」「養うてもらわんでも結構どす」「そんなら養わん約束でついてきてもらおか」。何とも無責任で微笑ましい婚約だったらしい。

 倉田の夢想的で甘美な愛に対して、天香の愛は現実的で厳しい。天香は徹底して本物を追求している。自分が担当した北海道での開拓事業が行き詰まった時、足の指を1本、ノミで切断し、誓いの血書を認めたほど、自分に厳しかった。

 ――『出家とその弟子』では、遊女かえでとの愛に悩む唯円が親鸞に相談するが、親鸞は明確に答えることができない。

 それは倉田の心を投影したもので、赤裸々な告白が当時の青年たちの共感を呼んだ。『出家とその弟子』はベストセラーになり、親鸞のモデルが天香だと倉田自身が語ったこともあり、一燈園が有名になった。同書を読んだ天香は日記に「材料としてまことによく書かれたり。世の珍重すも道理也」と記している。

 そして大正8年、『出家とその弟子』が一燈園の主催により京都公会堂で初演されたが、福岡で療養していた倉田は観ていない。

 ――同書の親鸞は天香さんに似ていないが

 大正6年、天香への手紙で倉田は「私は親鸞をあなたとは全く違った性格に描きました。非常に否定的な天才に描きました。何に対してもはっきりきめられない人にしました。南無阿弥陀仏の外には、具体的な定見の立たない人にしました」と書いている。天香と一燈園に触れたことが、彼の求めていた真の愛についての確信を得るきっかけになり、戯曲にできたのだろう。その後も天香との交流は続き、倉田は一燈園の同人、天香の弟子を自任していた。

 一燈園で生まれ育ち、創始者・西田天香の精神を40年以上にわたり身をもって体験してきた相学園長。教育には“教わる教育”と“伝わる教育”と“気づく教育”があり、教えることが出来るのは知識と技術のみで、人間性、価値観、生活習慣は教わるより「伝わる」「気づく」ものである、というのが持論。平成17年11月にNHK教育テレビ「こころの時代」で放映された相学園長の「命は授かりもの」は大きな反響を呼んだ。平成23年「教育者 文部科学大臣表彰」受賞。現在、教育をはじめ国際理解教育、ユネスコ運動、ボランティア、1ARF(国際自由宗教連盟)などの活動にかかわっている。著書に『いのちって何?』(PHP研究所)がある。