宗教者が連携し世界平和構築を 宗教法人大本札幌南分所所長 谷口岩雄師に聞く
宗教と世界平和
世界中で過激派テロが横行し、人類社会を不安に陥れている。特にイスラム教を独自に解釈した過激派テロによる誘拐、拉致や殺人が頻繁化し、深刻な国際問題となっている。折しも今年は日本でオウム事件が起こって20年目に当たる。本来の宗教の在り方、宗教者の取るべき態度などについて宗教法人大本札幌南分所の谷口岩雄所長に聞いた。(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)
恨みの負の連鎖止めよ
言霊による真摯な対話が道開く
――最近、ヨーロッパではイスラム教の過激派によるテロが頻繁化しています。今回の過激派組織「イスラム国」の日本人拉致殺害もありました。宗教を持った人々が人道に反した残虐な行為を行うのは、日本人にはなかなか理解されないことだと思うのですが。
世界中に多くの宗教があります。日本の中にもたくさんの宗教がある。世界の宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教、そして儒教と大きく四つに分けられますが、それぞれの教派にもいろいろな宗派があります。
キリスト教ではカトリックやプロテスタント。イスラム教ではシーア派、スンニ派。仏教でも大乗仏教、小乗仏教に分けられているが、地域や民族によって同じ教祖(例えば、イエス・キリストやムハンマド)を信じても習慣や考え方は大きく異なっています。
よく西洋と東洋とでは宗教観が違うといわれます。キリスト教やイスラム教は「砂漠の宗教」で一神教。厳格な神であって許しがない、と捉えられています。一方、東洋は多神教で母性的な面が強い。
しかし、神様というのは本来厳格な存在なのです。なぜなら、宇宙には法則があり、その法則に反したら神様の御心に沿わないために、自ら不運に陥ることになります。そうした厳格さは、何も西洋の宗教に限ったことではなく、東洋の教えにもあります。そこから規律や規範が生まれてくるわけです。
ただ、昨今のイスラム教過激派によるテロ行為を見ると、本来の宗教の教えからかなり懸け離れている側面があります。一つは、彼らが恨みや復讐(ふくしゅう)といった負の感情によって支配された連鎖行動を取っていること。もう一つは、そうした感情を正当化するために教えの一部を使って理論を構築していることです。
宗教は、決して戦いの道具ではありません。すべての地域、国家、世界の人々が幸福になるために説かれたものであって、特定の個人や地域、国家のみが幸福になることを教えていません。
もちろん、過去を振り返ってみると、人類歴史は戦いの歴史でもありました。西欧はキリスト教国家でしたが、互いに戦争を繰り返してきました。その背景には、領土拡大への野心もあったと思います。
しかし、そうした国家的自己中心的な考え方は、何も利益を生まないことを現代人は悟りつつあります。「国家的な俺が、俺が、俺が」という我欲の行為が、紛争や戦争といった負の連鎖を引き起こしていくわけです。
――イスラム教の過激派組織は各地でテロ行為を行い、人々を不安に陥れています。各国もその対応に苦慮していますが、解決のための処方箋はあるのでしょうか。
何よりも対話が必要だということです。今回の「イスラム国」の問題にしても、日本は相手のことをよく知らない。それが問題解決を長引かせている要因になっています。「イスラム国」という相手側の組織が、内情を隠しているという側面もありますが、それにしても対話が必要です。とりわけ、宗教者同士の対話と交流は今後さらに重要になってくるでしょう。
対話とは言葉による交流ですが、言葉には「言霊(ことだま)」といった心の思い(魂)が含まれています。単なる互いの損得勘定を背景にした対話ではなく、言霊による真摯(しんし)な対話が新しい道を開いてくるはずです。なぜなら、よき対話は愛を芽生えさせ、勇気と一致と調和をもたらすからです。
――近年、世界的に宗教者の対話が進んでいるように見えますが、さらに対話が必要だということでしょうか。
宗教法人大本では世界連邦運動を支援しています。世界連邦運動とは国家を超えた権威と権限を有する世界連邦を構築する運動ですが、一つ一つの国が国益を中心にして動けば国同士の衝突が必ず起こってきます。世界平和という理想を掲げ、その実現のためにそれぞれの国が動いていくことが大事です。
江戸時代から明治にかけて、日本は廃藩置県を行いました。明治に入り、藩を取り払って一つの国として政治体制をつくってきました。今は、世界的な廃藩置県が必要な時だと思います。国家という壁を取り払い世界連邦という形を構築していく。その際に、世界の宗教者、宗教指導者が率先して、神の理想について謙虚に話し合い、その実現のために働く必要があると思います。宗教者が一宗派の中で安穏としている時代は過ぎたと言ってもいいと思います。今や、宗教者も国連レベルの国際組織をつくり、宗教者が連帯して世界平和に向けて動く時代に入ったのではないでしょうか。
――日本でも20年前にオウム真理教がサリン事件を起こして多くの人がその犠牲となりました。
宗教者は、愛を語り、愛の世界を実現する使命があります。自分たちの教義のために人を殺してもいいという法はありません。
本来、人間が人間を罰することはできません。神様さえも最終的には人間を許します。宇宙は神様によってつくられた存在で、法則と神秘的な美しさにあふれています。私たち人間も神様によってつくられました。人間一人には60兆もの細胞があり、細胞には核と呼ばれる構造体があって、そこに遺伝子があります。遺伝子には遺伝情報という神様の計らいが示されているといわれています。
各個人の遺伝情報はほぼ同じものの、ちょっとの違いがあって、それが個性として表れている。つまり人間は価値ある存在として生まれてきているわけです。人間は神様によってつくられた貴い存在であると自覚したら、他の人も貴い存在であると自覚できます。そうした自覚を持つことが大事で、そうした自覚を持つことができれば神様によってつくられた人々を殺していいという発想は出てきません。
――近年、日本でも殺人事件が多くなっています。「人を殺してみたかった」という短絡的な思考で殺人に走るケースも多くなっています。命の尊さと命と命の絆(きずな)についての自覚が必要ですね。そういう意味で宗教者の役割は重要になってきますね。
無関心で自分の嫌いなものは排除するという人が増えてきているのではないでしょうか。医療でも悪いところがあれば、すぐに切ってしまう。ポリープでも発見するとすぐ切除。なぜポリープができたのか、その辺はあまり探求しない。
日本の社会は経済的に裕福になった半面、精神が荒廃し、今や精神の貧困化に陥っています。家庭は砂漠のようで会話がない。学校は不登校やいじめが増加。地域は孤独死が増加するなど、家庭、学校、地域は危機的な状況にあります。そして、その根底には対話不足があります。昔の日本は、貧しかったが対話がありました。貧しかったけれども健康な人が多かった。江戸時代、教育を担っていたのは寺子屋で、宗教者が人の道を子供たちに教えていました。
日本社会が今病んでいる背景には、家庭や学校、地域などできちんとした対話や交流がもたれていないことがあると思います。すなわち、政府や行政は「社会に対話をもたらす」ことを怠るがゆえに日本人の思考が短絡的になってきているのではないでしょうか。
対話やコミュニケーションの必要性が叫ばれていますが、その前提となる「人としての道」や「目に見えないものへの畏敬」「言霊の入ったきちんとした言葉遣い」を教えるのが宗教者の役割と言えるのではないでしょうか。