万葉集の植物を歌い続けて 歌人 中根三枝子さんに聞く
建国記念の日 特集
通い続けた植物園と山野 秋の七草は憶良が子供に教えた数え歌
撮影で苦労したアカネ ご神木のような千年スギ

なかね・みえこ 昭和11年、茨城県生まれ。東洋大学大学院文学研究科国文学専攻博士後期課程単位取得。東洋大学短期大学、鶴見大学短期大学部などで教鞭(きょうべん)を執る。現在、迯水短歌会編集人。著書『萬葉植物歌考』『萬葉植物写真集成』。歌集『桜川』『玄冬花』『花信風』『蘇れ萬葉植物』ほか。
今日は建国記念の日。国が出来始めた古代から、万葉集の中で歌われてきた数々の植物がある。万葉集研究家で歌人の中根三枝子さんは、それら植物の歌に万葉の人々の心を探り、自らもそれらの植物を歌に詠んできた。その歳月を振り返り、歌集『蘇れ萬葉植物』に込めた思いを聞いた。(聞き手=増子耕一)
――ここは練馬区ですが、緑が結構多いですね。
「散歩がてら、自宅の周りを歩くと、結構いろいろな万葉植物に出会うのです。マツ、スギ、シキミ、オウチ(センダン)など。暇ができると電車に乗って植物園に行ったり、車で山野に出掛けたりしました。私が編集人を務めている短歌雑誌『迯水』の発行所が府中にありますから、そこへもよく行きます。不思議なことに、練馬あたりはマツが多いのですが、府中にはマツがあまり見当たらなくて、ケヤキが多い。土地によって違うんだとつくづく眺めています」
――これまで中根さんは万葉植物については大著『萬葉植物歌考』で徹底的に調べ上げ、続いて写真集『萬葉植物写真集成』を刊行。そして歌集『蘇れ萬葉植物』を上梓(じょうし)し、全部で165種類の植物についてすべて歌い上げています。
「何年もかけてやってきましたが、始めたのは昭和63年からで、『迯水』に毎月連載をはじめて、今は“万葉植物逍遥”という随筆風の文章を綴(つづ)っています」
――写真集を作る時には、万葉集で詠まれた状況を、花なら花を、葉なら葉を、実なら実を撮影されたそうですね。
「その植物にもよるのですが、栽培してみたものもあります。ハマユウがそうで、苗を頂いて栽培してみましたが、うまくいきませんでした。発行所でも栽培してみたら、こちらは担当者の手入れがまめで、うまくいきました」
――それを“わが愛でし万葉植物浜木綿の球根ぽつちり芽吹くが見ゆる”と詠んでいます。
「栽培できない植物もあります。カタカゴ(カタクリ)なんかがそうで、花が咲くまで7、8年かかり、種を土に落として、それからアリが深い所へ運ぶのです。そうでないと芽が出ません。最近では自然公園などで群生させてカタカゴ祭りなどやっている所があります。私の故郷、茨城でもそんな所があって、大きな木があったり、枯葉が散り敷いたりして、至る所に群生していました。一人で見に行ったんですが嬉(うれ)しくなりました」
――カタカゴは大伴家持が越中で詠みましたが、中根さんはその作品を踏まえて“公達の思ひほのぼの汲みまがふ八十少女らのさざめきの声”と作り、“堅香子をうましうましと食うぶる人一千余年のいにしへ思へ”と歌っています。万葉の歌を念頭に置いて、それを偲び、次第に今の状況を歌にしています。これが歌集『蘇れ萬葉植物』の特徴になっているように思います。
「思考錯誤でやってきました。アカネではとても苦労しました。東大和薬用植物園に行っても葉とか芽が出るんですが、とうとう花は咲かなかった。何度も行きました。案内人の方に、見掛けたら電話で連絡くださいと頼んでおいて、しばらくしたら電話をくれて、教えられて行った所は五日市の林道でした。道の方まで咲いていてびっくりしました」
――額田王が“茜さす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守りは見ずや君が袖振る”と詠みました。アカネは根が染料の原料でしたが、今では見つけにくい植物のようですね。一方、クワについては詳細に歌っていますね。
「茨城県はかつて養蚕が盛んで、子供の頃、うちでも飼っていましたから、経験があるのです。そうした思い出に加えて、本で読んだり実際に見たりして、歌ができたのです」
――“万葉に二首を数へる桑の歌新桑繭(にひくはまよ)の御衣(みけし)尊し”と万葉の歌に敬意を表し、そのあと“よき衣(きぬ)は一番生えの桑の葉に飼はれし春蚕(はるこ)の繭より生まる”と詠んで、現代まで続いた生活との関わりが偲ばれます。スギもケヤキも写真集に収めているのは巨木です。
「これも茨城県内ですが、嫁いだ中根の屋敷の裏にスギ山があって、太いスギがあったのです。ご神木のような印象でした。ところが雷が落ちで一本はだめになってしまいました。スギとかケヤキとか、たいそうな木を見てきましたけど、究極はふるさとの木を思い出します。実家にも大きなケヤキがあって、子供の頃、そこで遊んでいましたが、これも雷が落ちてなくなりました」
――その巨木を、“千年の杉の孤独を人知るやてつぺんはげたか父母(ちちはは)の声”と歌っています。中根さんの歌を読んでいると、万葉の人たちもそのように感じていたのではないだろうかと思われてきます。ところでお名前の三枝は、ミツマタのことだそうですね。
「自分でもそう思っています。サキクサと読みます。両親がそれを意識していたのかどうかは分かりませんが、父も植物が好きでしたから、そういう思いはあっただろうと思います。”三枝子の名前が咲いたぞ“と教えてくれたりしましたから」
――ところで歌集の冒頭で「常磐なる 松の姿や 神宿る」と歌う、マツをテーマにした長歌と反歌が掲載されています。現代歌人で長歌を詠む人は多くありません。
「自分としては短歌と並行して長歌もやりたいと思ってきました。ここでは、古代から現代に至るまで、マツというものの一代記を表してみたいと思いました」
――生活で用いられた用材としてのマツもあれば、松島の風景を彩るマツもあり、万葉の物語で描かれたマツも、三陸震災で残ったマツも登場します。
「長歌は思い付きでできるものではありません。いろいろなことを調べたり、感じたりしてきて、それらを組み合わせ、ちょっとした歳月をかけてやらないとできない。ここではマツのすべてを表現したいという気持ちがありました」
――さて、次には、有名な秋の七草についてお聞きしたいと思います。
「山上憶良が秋の七草を歌っています。“秋の野に咲きたる花を指(をよび)折りかき数ふれば七種(ななくさ)の花”この時代の人たちも秋の風情に特別な気持ちを抱いていたようです。憶良は子供が好きで、歌で数えながら、教えている情景です。万葉ではまだ、春の七草を歌うことはしていませんでした」
――春といえばサクラですが、写真集で被写体となったのは、よく知られているソメイヨシノではありませんね。風情が素朴です。
「万葉の人たちが見ていたのはヤマザクラです。遠くに咲いているのを見て、今年はたくさん咲いたから豊作になるだろうという占いのためでした。ぱっと散ったりすると、今年は不作ではないかと判断したりしました。ソメイヨシノのイメージではありません」
――“思ほえば永くもあるかな育(はぐく)みし人の歳月桜花(さくらはな)咲く”と詠んでいます。
「サクラの歌もいろんな人がいろんな形で詠んでいますけれど、どういうところをどう歌うか、人によって感じ方が違ってきます。大本は万葉のサクラで、今見ているものも踏まえて歌っているつもりです」
――最後に、春夏秋冬の好きな万葉植物を挙げてみてください。
「春はマツ、カタカゴ、オウチです。オウチ(センダン)の花は田舎にもあって、母が好きでした。母も『迯水』に入って歌を読んでいました。
夏はヒルガオ、スベリヒユ、ツキクサ(ツユクサ)。どこにでもある植物です。ヒルガオは近くの江古田駅の線路沿いにも咲いていて、ある時期が来ると、草ぼうぼうになるので、鉄道の職員が機械で刈ってしまいます。その花が可憐(かれん)で好きなのです。これを一輪、摘んできて、家に飾っておくのです。ツキクサはホタルグサとも呼ばれています。青い花が飛んでいるホタルのように感じられるからです。
秋はナツメ、シイの実、黄葉、オミナエシ。黄葉は紅葉とも書きますが、万葉では紅葉は一首のみで、あとは黄葉です。この時代には紅色よりも黄色が好まれました。貴族文化を取り巻く自然環境とか美意識の変化、また、漢詩文の世界の影響などが考えられます。オミナエシは面白いんです。古代には美しい女性に例えられて歌われましたが、古今集になると、みだらな女のイメージに変わってしまいます。現代では、そのような見方をしてはいません。
冬はツキ(ケヤキ)とホヨ(ヤドリギ)です。ケヤキは冬になると葉を全部落としてしまい、剪定(せんてい)をしなければ、真ん丸の形で裸になるのです。その裸木が好きです。すると葉に隠れていたホヨが見えてくる。府中でも行くたびに見たくなるんですけど、最近は切られてしまって、残念です」
――自然の感じがいいのですね。
「やっぱり歩いてみないと歌にはなりません。実際に感じて、その中から浮かんでくるのです」