『謎とき 東北の関ヶ原』 歴史家 渡邊大門氏に聞く
「司馬史観」はフィクション
豊臣政権から徳川時代への分水嶺となった関ヶ原の合戦は、これまで、実際の関ヶ原で行われた合戦が軸となって論じられることが少なくなかった。しかし、合戦の前には、政治的な駆け引きやそれに至るプロセスがあり、そう簡単に西軍と東軍の石田三成と徳川家康の戦いとすることはできない。歴史家から見た合戦の姿、残されている古文書などの史料を通じて、これまで照明が当てられなかった東北の武将たちの動きを明らかにした歴史家の渡邊大門氏に著書『謎とき 東北の関ヶ原』(光文社新書)について聞いた。(聞き手=羽田幸男)
小説、ドラマとは異なる実像
一次史料から浮かび上がる
戦国時代で注目されてきたのは、これまでは主に戦闘だが、一番重要なものはむしろ政治的な駆け引きだ。戦いに至るまでの駆け引きが重要で、そこで本当に勝敗が決すると私は思っている。だからその部分を細かく検証しないと、「こう戦った、ああ戦った」だけではあんまり意味がないんじゃないか。その中で、東北の関ヶ原というのは、特に「小山評定」(注1)や直江兼続の「直江状」(注2)が注目され、いろいろな問題があるので、ぜひ解明したいと思った。
――従来の説とはどう違う?
結局、関ヶ原合戦の構図というものは、二次史料といわれる軍記物語が根拠とされることが多く、面白おかしく伝わったものが多いです。それは後世に成立した史料なので、あまり当てにならない。関ヶ原を解明するには、根本的な史料といわれる当時の一次史料を使わなければならない。
それを無視していくと、これまでのステレオタイプのようなものになってしまう。例えば、家康と三成は本当に最初のころから仲が悪かったのか。また大谷吉継などは本当に三成と最初から徳川をやっつけようというようなことが実際あったのかどうか。史料を読むと定説が覆されるというか、そんな面白さがある。
――家康はどんな人物だったのか?
日本社会は身分秩序的なものが強固にあるので、現在でも会社であれば下の者は上の者に敬意を払い、それに従って行動する。家康のケースは、まさにそうです。一貫した態度は、豊臣政権は自分が支えていくのだ、という気持ちがあって行動する。ところが、それが周囲の誤解を招くというか、大きな軋轢(あつれき)になっていく。
ですから、あくまでも豊臣政権を最初から倒そうと思っていたというのとは違うと感じる。毛利の方は毛利の方で、上杉景勝や前田利長が家康から窮地に追い込まれ危機感を募らせていた。そういうのがぶつかったのが関ヶ原の合戦だと思う。
もともと家康は、天下に執着して「オレが一番になりたい」というようなものがなかったのではないか。
しかし、家康はある時期から征夷大将軍になって、自分が豊臣秀頼よりも身分が高くなる。豊臣家を一大名にしたい。けれど、豊臣方は自分の方が偉いと思っている。大坂冬の陣では講和したものの、豊臣方は牢人を多数召し抱えて城から退去しないということがダメだった。豊臣家が上位者の家康の言うことを聞かないから困ったわけです。ですから、しようがない。ほかの大名に示しがつかないので、やるときはやらなければならない。それで、夏の陣では豊臣家を叩き潰した。
人によって研究は違うのですが、家康観は信長観や秀吉観を含めて、相当従来の見方とは変わっていると思います。
――新しい関ヶ原像を提示する?
「直江状(直江兼続の手紙)」についても、昔から議論がある。印象批判はあっても、検証が進んだのはごく最近のことだ。大河ドラマに取り上げられて、どうやら正しいものらしいという論調が出てきた。しかし、自分で検証してみると、これはだめだなと思う。創作物だろうと。あれは上杉家を守るために後に創作された可能性がある。
要するに、家康に戦いを吹っかけた、兼続にすべての責任を負わせるということ。ぼくはあまり歴史の改竄(かいざん)ということは信じていなかったが、安国寺恵瓊(えけい)なんかも、毛利家側の史料を読むと、「佞僧(ねいそう)」とか「悪僧」とかめちゃくちゃに書かれている。そのほうが都合がいい。特定の個人に責任を押しつけて、その人が悪いと。本人が死んでいるから反論できない。
徳川家が残ったので、徳川方の史料では豊臣方はすべて悪いとする。東北の関ヶ原の「小山評定」でも、それ自体があったかなかったか、あるいは事前の談合があったかなかったか、いろいろな説があった。そういうのがあったからこそ、劇的に語られてきたと思うんですが、今後よく検討して正しいものを伝えていかなければならない。
――家康は前田家や上杉家を罰することを本気で考えていた?
本気で考えていたのではないか。当時、城郭を新しく造る、修繕するというのは特別な意味があった。後の「一国一城令」につながっていくが、それが信長の時代から出てくる。「城割り」といって城を壊すのですが、城というのは攻撃の基地で、軍事拠点になる。それを壊すというのは、服従するという意味になる。だから城を新たに造るというのは、特別な思いがあるということを示す。その延長線上に前田家も上杉家もあった。だから、問題になるのは当たり前。
前田利長は、家康暗殺事件を計画した黒幕だったといわれている。結局、前田家はわびを入れることになった。それで、芳春院(前田利家の妻)を人質に差し出した。これが江戸に人質を出す最初となった。ふつうは家康の言いがかりといわれますが、真実はどうだったか……。
――上杉家の場合は?
上杉家の場合、まだ東北地方は安定していなかったとはいえ、上洛できなかったのが一番の問題だった。ちょうどその時期、上杉は越後地方の件でもめており、上洛が難しかった。東北はまだ流動的で不安定。伊達政宗の動きや最上一族の蠢動(しゅんどう)などもあり、それで、上杉方ではなかなか離れづらいという状況はあった。豊臣政権を支える五大老の一人として上洛すべきだというのに、来ないというのはアウトと言わざるを得ない。そうした事情を家康に酌んでもらえなかった。
――歴史の見方については、一般的に司馬遼太郎の影響が大きいのでは。
司馬遼太郎さんは、トラックで古書店の史料を買い込む。しかし、彼が読んでいるのは、大半が二次史料ばかりだ。古文書などは、あまりお読みになっていないのではないか。
そういう二次史料のおいしい部分を味付けして読者に感動を与える。そのあたりの大天才ではあると思う。歴史家は「司馬史観」に気をつけないといけないと言うが、「史観」でも何でもなくて「フィクション」にすぎない。読んだら引き込まれるような面白さと感動を与えられるが、でも、あれは小説だ。
上杉家などは、関ヶ原以降衰退するわけだが、その責任を誰に押し付けるか、ということがある。それが「直江状」に表れている。兼続が挑発的で余計なものを書くから、上杉家はやられてしまったというようなもの。兼続には世継ぎがいなかったので、そのようなスケープゴートにされた面がある。敗北の責任を押し付けるため犠牲にされたのは、兼続に限らず、安国寺恵瓊も同じだ。
――仙台藩の原田甲斐みたいなものですか。
そうです。誰かに罪をかぶせないといけない。安国寺恵瓊の本も書いたのだが、そういう人物にはシンパシーを感じます。本人は一生懸命にやっている。安国寺恵瓊の場合は、毛利家のために必死で働いている。豊臣家が勝つように工作する。
だけど、毛利家は百二十万石から三十万石に所領を減らされたので、あいつが悪いということになった。それはないだろうという話です。広島でもあまりいい印象が持たれていない。彼らの冤罪(えんざい)を晴らすというか、そんな気持ちもあります。
※注1
「小山評定」は、慶長5年(1600年)7月24日に、下野国小山(栃木県小山市)で開かれた歴史的会議。徳川家康の会津出陣中に石田三成が挙兵すると、「小山評定」で軍議を催し、三成らの軍と対決することを決定した。
※注2
「直江状(なおえじょう)」は、慶長5年(1600年)4月14日に上杉景勝の家老・直江兼続が、徳川家康の命により上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌(せいしょう・じょうたい)に送った書簡。関ヶ原合戦のきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされるが、偽文書説もある。