日清戦争勃発120年の日本と韓国 作家 片野次雄氏に聞く

根底に日本近代史の混迷

 今年は1894年の日清戦争勃発から120年に当たる。明治の日本が体験した初めての対外戦争で、これを通して日本は国民国家に脱皮し、経済的にも飛躍した。その近代日本の成功体験の裏で、戦場のほとんどが朝鮮であったことは忘れられがちだ。日韓史に詳しい作家の片野次雄さんに、韓国から見た日清戦争について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

戦争の主戦場は朝鮮/宗教争乱だった東学党の乱

東学党掃討で40万以上死傷/反日感情生む大きな要因に

400 ――日清戦争のきっかけになったのは朝鮮(朝鮮王国)で1894年3月に起こった東学党の乱だ。

 朝鮮では甲午農民戦争と呼ばれているが、単なる農民反乱ではなく、本質的には宗教上の争乱である。東学は西学(キリスト教などの西洋思想)に対する思想で、儒教・仏教・道教の修行をした慶州出身の初代教主・崔済愚が1860年に提唱し、朝鮮独自の思想に基づく国の改革を唱えた。政権に弾圧された崔済愚は大邱の地で処刑され、経典は燃やされたが、第2代教主の崔時亨が経典を復元し、東学は朝鮮半島中南部の各地に広がった。官吏の収奪で疲弊した農村で多くの信者を獲得し、次第に大きな力を持つようになる。

 日本の軍事的圧力を受け1876年の日朝修好条規(江華島条約)で開国した朝鮮は、清国を宗主国としながら欧米各国とも通商するようになっていた。守旧派の大院君に代わり閔氏が政権を握ったが、開化派官僚が主導する改革は壬午軍乱や甲申政変などで失敗し、国内は旧態依然のままだった。日本の明治維新に倣い朝鮮の近代化を目指した開化派官僚の金玉均は、甲申政変の後に日本に亡命したが、84年に上海で朝鮮政府の刺客に暗殺された。

 また開国により朝鮮から大量の米が日本に輸出されたため、民衆は食糧難に見舞われるようになり、1883年から各地で農民の反乱が起きていた。94年春に全羅道古阜郡で起きた反乱は、全琫準の指導で一帯を支配し、手を焼いた閔氏政権は、全州和約を結んで停戦している。

 もっとも、全琫準自身は東学に、それで農民が救われるのかと疑問を持っていたところもあった。また全琫準は、朝鮮民族同士が殺し合うのは愚劣だと思っていた。全琫準が恐れたのは、内乱を収拾するため朝鮮政府が外国に援助を求めることだった。かつて清国政府は、太平天国の乱を鎮めるためにイギリス軍の力を借り、それがイギリスに蝕(むしば)まれるきっかけになったからだ。全州は李王家発祥の地なので、全琫準は李王家の権威を利用して農民を主体とする新しい政治体制をつくろうとしていた。

 ――外国の脅威にさらされた日本、朝鮮、清国では、いずれも攘夷(じょうい)を伴う宗教運動が起こっている。

 日本では、それが外国勢力の介入を招くことはなかったが、朝鮮と清国では、時の政権の失政もあって、外国の軍事介入を許してしまった。近年、韓国では甲午農民戦争を農民革命と呼び、その歴史的な意義を見直している。

 ――農民戦争で清国は朝鮮への派兵を決めた。

 国王の高宗が反乱軍の鎮圧を清国に要請したためだが、当時、清国の軍事・外交を主導していた李鴻章は、素早く反応した。朝鮮進出を強めている日本を出し抜き、朝鮮支配を強化するためだ。約2400の軍兵を牙山(アサン)湾から朝鮮に上陸させ、全州の北方に当たる忠清道一帯に布陣した。李鴻章の指示を受け、事実上の朝鮮公使として朝鮮の内政にも干渉していたのが、北洋軍閥総帥の袁世凱である。

 また、甲申政変後に結ばれた1885年の天津条約により、日清両国は朝鮮に派兵する際、互いに通知し合うことになっていた。そこで李鴻章は日本に派兵を知らせ、それを受けた日本政府も朝鮮への派兵を決め、通知が届いた94年6月6日の翌日、約7千の第1次派兵軍を広島の宇品港から出港させ、仁川に上陸させた。朝鮮からの情報により、対外戦争を予想していた明治政府は、海軍力の整備に多額の予算を投じていた。

 ――ところが、清国軍が上陸してみると農民戦争は収まっていた。

 全州和約が結ばれたためだが、その後、政府軍が農民組織を攻撃したので、全琫準は1895年秋の収穫後に再蜂起した。これを朝鮮軍を従えた日本軍が制圧し、全琫準は捕らえられ同年、首都の漢城(今のソウル)で処刑された。

 問題は、朝鮮に進攻した日本軍が朝鮮政府軍と共に行った東学党の掃討作戦で、40万以上の農民と婦女子を死傷させたことだ。これが朝鮮国民の間に根強い反日感情を生む大きな要因になったとされる。

 ――一方、日清両軍は一触即発の事態になっていた。

 朝鮮政府は日清両軍に撤兵を要請したが、両軍とも受け入れなかった。伊藤博文内閣は、出兵の目的を日清共同での朝鮮の国政改革に変更したが、清国は拒否し、開戦は時間の問題となった。1894年7月に日本軍は朝鮮王宮を占領し、政権から閔氏を排除し、高宗に代わって大院君を執政の座に就かせ、清との宗属関係の解消を宣言させた。

 ――開戦を主導した陸奥宗光外相は、「本源にさかのぼれば日清両国が朝鮮における権力競争」とその著『蹇蹇(けんけん)録』に書いている。

 大本営では、朝鮮海峡へ出撃する連合艦隊が出合った敵艦に攻撃を仕掛け、それをきっかけに開戦すればいいとの暴論も出ていた。そして7月25日、牙山湾からと豊島沖に出動していた日本の遊撃艦隊が清国の艦隊に遭遇し、清国の軍艦が発砲したのに応戦して豊島沖海戦が起こった。一番問題なのは、8月1日の宣戦布告前だったことだ。

 9月には平壌攻略戦で、黄海海戦で日本海軍が勝利し、10月には清国に侵攻した日本陸海軍が遼東半島に上陸し、旅順口を占領した。

 ――陸戦でも日本軍が圧勝し、1895年4月からの講和会議で下関条約が結ばれ、その第1条に清国は朝鮮の独立を認めることがうたわれた。その他、清国は日本に遼東半島、台湾などを割譲し、賠償金2億テールを支払うとされた。

 朝鮮の独立は清国との宗属関係を断つためで、これによって日本の影響力が高まるものと思われた。ところが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉によって朝鮮における日本の影響力が減退すると、政権を追われていた閔氏がロシアの力を借りてクーデターを起こし、95年7月に政権を奪回した。

 こうした中で、日本公使の三浦梧楼らは日本の影響力回復のため、大陸浪人や日本軍が育成した朝鮮兵を使い、親露派の王妃・閔妃を排除するクーデターを起こした。その混乱のなかで起きたのが「閔妃暗殺」である。国際的にも大事件とされたため、日本は三浦ら関係者を裁判に掛けたが、日本政府の圧力を受けた朝鮮政府が仕立てた偽の真犯人を逮捕・処刑したのを受け、無罪放免した。

 ショックを受けた高宗は、ロシア公使館に遷座し、約1年間、政務を行うなど結果的にロシアへの傾斜を強め、朝鮮の支配権をめぐる日露戦争への火種となった。

 こうした、朝鮮半島をめぐる日本近代史の混迷が、今日の日韓関係の根底にあることを、私たちは日清戦争勃発120年の年に再認識すべきだろう。

 山岳写真家として世界の山に登っていた片野次雄氏が、朝鮮の歴史ノンフィクションを書くようになったきっかけは、日本とは違う山の良さを求めて韓国の山に登っていた時に知り合った韓国人に、自分の知らない日韓の歴史を教えられたのがきっかけだという。以後、今より厳しかった反日感情の韓国で、取材を重ね、古代から近現代まで『戦乱三国のコリア史』『李朝滅亡』などのコリア史7部作を完成させた。一部は韓国で翻訳出版された。1995年には、著述を通して日韓友好に寄与した功績により、大韓民国政府から感謝状を授与されている。日韓史の最もホットな部分が、読みやすい形で出版され、通史を補う読み物としてそろった意義は大きい。