生誕150年のダルマパーラと日本 蘭華寺住職 バーナガラ・ウパティッサ師に聞く

スリランカ近代化のモデル

 千葉県香取市にある蘭華寺(らんかじ)で7月20日、イギリス植民地下のスリランカ(セイロン)やインドで仏教復興運動を展開し、建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラ(1864~1933年)の生誕150周年を記念する式典が行われた。日本とも縁の深いダルマパーラについてバーナガラ・ウパティッサ住職に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

明治日本の姿に影響受ける/独立は民族伝統精神で

技術習得に留学生派遣/「次に生まれる時は日本に」

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 ――ダルマパーラとはどんな人か?

 ダルマパーラはスリランカで神のように尊敬されている。生誕日の9月17日を中心に、スリランカやインド、アメリカ、イギリスなどで記念行事が行われるが、蘭華寺では少し早く法要と式典を行った。

 1864年、コロンボの裕福な家具商で仏教徒の家に生まれたダルマパーラは、当時のシンハラ族のエリートの子弟たちと共に、キリスト教の学校で英語教育を受けた。当時、イギリスの植民地であったスリランカは、半世紀以上にわたり、キリスト教徒でなければ就職も出世もできない時代が続いていた。

 しかし73年、仏教とキリスト教の間で行われた「パーナドゥラ論争」で仏教側が勝利したことから、スリランカ仏教は蘇生する。彼はこの事件を10歳の時に目撃し、仏教に傾倒するようになった。

 ダルマパーラは祖父がコロンボ仏教神智協会会長だったことから、アメリカ人のオルコット(ニューヨーク・トリビューン紙の編集者、弁護士を経て、1875年にニューヨークに神智協会を設立し、初代会長になった)や、彼と共に神智協会を作ったロシア人降霊術者のブラバツキー夫人と親しくなる。

 神智協会は一種の神秘主義的な結社で、全ての宗教、思想、哲学、科学などの根底にある普遍的な真理の探究を目指していた。ダルマパーラは84年に神智協会に入会し、仏教研究のためパーリ語を学び始める。86年、22歳の彼は勤めていた文部省を辞め、オルコットの助手を務めるようになった。

 ――1889年にダルマパーラが初来日したのは?

 日本仏教界の招きでオルコットが3カ月間滞在したのに同行したのだが、ダルマパーラは航海中にリウマチにかかり、日本ではほとんど病院で過ごした。

 しかし、明治憲法発布の日に神戸港に入港し、近代日本の姿を目の当たりにしたことが、彼に決定的な影響を与えた。彼は日本にならい、スリランカの独立を、民族の伝統精神である上座部仏教の復興によって達成しようと考えたのだ。

 ――同じ頃、日本人で初めて上座部仏教徒になる釈興然(こうねん)がスリランカに留学していた。

 明治政府の宗教政策により、浄土真宗以外の僧侶にも妻帯が認められたため、日本仏教における戒律の伝統は危機に瀕(ひん)していた。これに危機感を抱き、戒律復興運動を興したのが真言宗の釈雲照で、彼は戒律を学ばせるため、1886年においの釈興然をスリランカに留学させた。興然は90年に受戒している。

 1890年末、29歳のダルマパーラは釈興然と共に、南インドのアディヤールで開かれた神智協会の年次総会に出席し、翌年、2人はインド北部の仏跡を視察した。約2500年前、釈尊が悟りを得たブッダガヤ大菩提寺に参拝すると、仏教の根本聖地はヒンドゥー教シヴァ派のバラモンが支配していた。

 ――ヒンドゥー教徒に支配された経緯は?

 釈迦の死後、アショーカ王は紀元前3世紀に8万4千の仏塔を建立し、インドを仏教国にした。紀元5~6世紀のグプタ朝時代に、ブッダガヤにそびえる大塔の原型が作られたが、12世紀になるとイスラム王朝の成立などによって仏教は衰退し、寺院は破壊された。

 1870年代になり、当時は独立国だったビルマ(ミャンマー)のミンドン王がブッダガヤの復興に乗り出した。巡礼者のレストハウスを建設し、大塔の修繕を始めたのだ。81年からはイギリス・インド政庁も大塔の修復と周辺の発掘を始め、現在のブッダガヤ大塔が復元された。

 一方、当時のブッダガヤはシヴァ神信仰の聖地としてヒンドゥー教徒の参拝を受け、男根を象徴するシヴァ・リンガが祭られているありさまだった。さらに、ブッダガヤ大菩提寺を所有していたのは「マハント」と呼ばれるバラモン階級の領主だった。

 こうした惨状に涙を流したダルマパーラと釈興然は、ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻すことを誓った。

 これがダルマパーラによる1891年の大菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)の創立と国際仏教徒会議の開催へと発展していく。2人は大菩提寺の購入を計画し、ビルマや日本で募金運動を進めたが、政治的な問題もあって成功しなかった。

 また、ダルマパーラは世界に向けて仏教雑誌「マハーボーディ」を発刊し、欧米知識人への仏教の普及に努めた。スリランカでは学校や図書館、病院をつくり、仏教を学ぶ人を世界各国から受け入れた。

 ――ブッダガヤの大菩提寺はどうなったのか。

 復興運動は仏教徒たちに受け継がれ、独立後の1949年、インド政府はブッダガヤ寺院法を制定し、仏教徒とヒンドゥー教徒から成る管理委員を設け、ヒンドゥー教徒が所有するが仏教徒が実質的に管理するという今の体制になった。

 ――スリランカの独立運動は?

 ダルマパーラは仏教復興運動を通して、シンハラ・ナショナリズムを確立したと言われる。仏教の興隆と科学技術の導入でスリランカの繁栄を目指す彼の運動は、シンハラ人エリートや都市住民、地方の指導層にも受け入れられていった。彼がスリランカ近代化のモデルとしたのが日本で、3回目の来日をした1902年には日英同盟が結ばれており、彼は「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役割だ」と語っている。

 ――その2年後、日露戦争が起こり、日本は大国ロシアに勝利した。

 多くのアジア諸国と同様、スリランカも日本の勝利に歓喜した。ダルマパーラも「日本人によってアジアは死の淵から生還した」と語っている。日本の発展を目の当たりにした彼は、シンハラ人の自立のためには技術教育が必要だと考え、日本に留学生を派遣し、織物や陶器、マッチ作りなどの技術を習得させている。

 しかし、ダルマパーラの活動はイギリス当局の警戒を招き、彼は暴動の首謀者としてインドで5年間拘束され、弟は獄死した。そして、スリランカの独立を見ることなく、1933年に69歳で亡くなった。期待を寄せた日本から仏教復興運動に十分な支援を得ることはできなかったが、「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。

 ダルマパーラの遺志は弟子たちに受け継がれた。孫弟子の私もその一人だ。大菩提会は世界の仏跡の保護をはじめ仏教の復興・布教・研究のほか、病院や学校建設、社会福祉など幅広い活動を展開している。

 ウパティッサ師(Ven.Banagala Upatissa)は1950年スリランカ生まれ。12歳で大菩提会に入会し、17歳で得度、インド・サンチのボパール大学でインド古代史と政治学の学位を取り、考古学の修士号を取得した。76年に初来日し、1年間、日本語を学びながら帝釈天題経寺のルンビニ幼稚園で幼児教育事業を学ぶ。84年に東京・江戸川区の民家を借り、大菩提会の支部を兼ね日本スリランカ仏教センターを設立。89年に千葉県香取市に今の蘭華寺を建立、住職になり、92年に本堂を完成させた。その間、約20の幼稚園をスリランカで開く。スリランカ大菩提会会長として多くの宗教指導者に会い、世界的に活躍している。