四国遍路開創1200年、人生を考えるツーリズム 香川大学経済学部教授 稲田道彦氏に聞く

 今年は空海・弘法大師が弘仁(こうにん)6年(815年)に四国霊場を開いてから1200年。八十八箇所霊場(札所)では、記念スタンプや御本尊の御影(おみえ)などを用意し、お遍路さんを迎えている。江戸時代初め、庶民向けに出版されたガイドブック『四国邊路道指南(へんろみちしるべ)』の解説付き復刻本を出した稲田道彦・香川大学経済学部教授に話を伺った。

対話の相手は自分/お接待などで人との関わり

宗教教理で歩くというより/アニミズム的な感性が蘇る

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 ――先生と四国遍路とのかかわりは?

 観光の研究から景色に興味があった。40日間ほど四国遍路をしたら人生観が変わったという話がたくさんある。それには寺や人も含めた総合的な景観が大きく働いているのではないかと思い、歩き遍路で4回に分けて38日間で回り、得るものがいっぱいあった。

 結願(けちがん)寺の大窪寺は、非常に長い巡礼の集大成の札所。私が歩いたのは秋で、長尾寺から山道を登り、峠を越えたところにある相草の集落を見ると、稲刈りが終わったばかりで、山すそは草が刈られ、お墓には菊の花が添えられていた。袋の底のような盆地の風景が理想郷のように感じて、止めどもなく涙が流れ出てきた。長い間歩いてきた結願ということもあって、頭の中の別天地のような想像と一致したことが、大きな感激につながったのだろう。

 歩き遍路をすると、道筋に住んでいる人たちとのかかわりができてくる。悪い人には一人も出会わなかった。立ち止まって話をするのは、お接待をしてくれたり、道を教えてくれたりする人なので、みんな親切だ。悪い人がいても、すれ違っていたのだろう。

 遍路姿で歩いていると、みんなが挨拶してくれる。見知らぬ人に挨拶するなど、都会では考えられない。四国の風土や景観には自然や人とのかかわりなどいろいろな要素があって、それらが人に感動を与える装置になっているように思う。

 宗教的な発心もなく、最初は物見遊山で、お寺でも手を合わせるくらい。途中から般若心経の本をもらい、たどたどしく唱えながら回った。歩いているうちに、自分の中で、四国遍路と札所のお寺とのかかわりがどんどん小さくなっていった。だから、宗教的な教理によって歩くというより、もっと昔の、原始神道や原始仏教にあるかもしれない、古代日本人的な感性に訴える力がすごくあるように思った。教義的な信仰ではなく、自分の中に根付いている、日本人の古来から培ってきたアニミズム的な感性が自分を突き動かしているように感じ、そこから得る感動が一番大きかった。

 ――空海が大学での勉強に満足できず、四国の山野で修行したのも、そんな思いからだったのでは?

 私もそう思う。空海が修行した所はそう多くなく、後に88の寺院が霊場とされたのは、空海を慕う人たちが作ったのだろう。

 ――江戸時代に眞念がガイドブックを作った。

 それまで四国遍路をするのは修行者がほとんどで、彼らの間では長い間に作り上げたシステムルールがあったのだろう。江戸時代に庶民も回るようになると、彼らにはきめ細やかな案内が必要なので、貞享4年(1687年)に眞念が書いた『四国邊路道指南』が出版されたのだと思う。

 密教の間で弘法大師を慕う信仰が高まるにつれて、修行としての巡礼が、現世利益の信仰として再構成されたのだと思う。修験道に近い聖地崇拝的な自然崇拝から発展した巡礼が、弘法大師信仰を軸に変換されていった。

 四国八十八箇所巡りは西国三十三観音巡りを参考にしてつくられたのではないか。88の札所を決めたのも眞念だとされるが、眞念の本が出る2年前に四国を回った俳諧師の大淀三千風の本にも「八十八」の数字が出てくる。いずれにせよ、その時代に四国八十八箇所が定められたのだろう。

 眞念は自身で、大坂の寺嶋(現・大阪市中央区空堀商店街付近)に住む頭陀聖といい、四国を10回以上または二十数回回ったと書いている。弘法大師への信仰が厚く、四国のことをよく知っていたので、当時、大坂で発達した出版文化を利用して四国遍路を再構成したのだろう。お札の書き方などもあり、巡礼の基本的なスタイルがその時代にできたと思う。

 今の遍路は般若心経を唱えて納経するのが多いが、眞念が勧めているのは、光明真言と大師の宝号で回向した後、その寺のご詠歌を3回唱えることで、寺ごとのご詠歌が書かれている。ご詠歌を強く推奨しているのが眞念の大きな特徴だ。

 もしかすると、お接待の習慣も眞念が始めたのかもしれない。本には宿を貸してくれる人など宿のことがよく出てくる。眞念の本より前に遍路を行った澄禅の『四国邊路日記』には、「後生願いのために宿やかす」(自分が死後、浄土に行けるよう願って宿を貸す)という記述があるが、『四国邊路道指南』では「邊路をいたわり宿かす」というように、現代の「お接待」の気持ちに近づいているように思える。

 宿を貸してくれる人の名前がたくさん出てくるし、眞念自身も宿に困って尋ね回ったと書いている。修行者であれば寺に泊めさせてもらったり、野宿したり、宿には困らなかっただろうが、庶民にとっては宿のことが気になるので、雨露をしのげるお堂のことも書いている。四国のお接待文化をつくる上で、眞念が貢献しているのではないかと、私は想像している。

 ――宿のない所には遍路宿を建て、遍路が道に迷ったりしないように標石を設けている。

 札所以外の拝所や聖地も所々書かれているので、修行者の時代はそういうところを巡っていたのだろう。修験者は険しい山岳や、空海が悟りを開いたとされる室戸岬の御蔵洞のような洞窟などで修行していた。それが、眞念の時代に寺を巡るように組み変えられ、今に続いているのではないか。

 ――さぬき市長尾町にある前山おへんろ交流サロンには、お接待をしたお遍路からお返しにもらったお札を詰めた俵がある。

 私もお札を詰めた俵を預かったので、調査の後、おへんろ交流サロンに納めた。俵を開けると、江戸時代から明治にかけての遍路札がたくさんあった。その家では大黒柱の一番高い所に吊るしていて、人々の気持ちの籠もった尊いものを吊るしているので、家が守られていると語り伝えられていたという。

 ――現代人にとっての四国遍路の意味は?

 私は「人生を考えるツーリズム」だと思う。歩き遍路をした期間、対話の相手は自分だった。脈絡もなく過去のことが思い出され、自分と対話しながら歩いた。また、お接待されると、私は一人ではない、誰かに見守られているという感覚になり、かけがえのない人間として、社会の仕組みの中で尊重されている自分を感じた。そんな気持ちで自分の人生を振り返ることができる。遍路は宗教的な巡礼だが、宗教心がなくても、自然の中を歩き、人々と接しながら、自分の人生を考えるようになる。そんなツーリズムに四国八十八箇所は一番適している。

 稲田道彦教授の研究テーマは、墓地文化の地域的変容過程、四国遍路、観光地理学、瀬戸内海島嶼(とうしょ)地域の生活文化の変化など。観光学の視点から四国遍路に興味を持ち、香川へんろ研究会の事務局を担当している。眞念の本は数年前、京都市内の古書店で見つけた。既に研究されていた同様の本とは1ページの行数や細かい記述などが異なり、眞念による「改訂版」の可能性が高いという。そこで全ページの写真に読み下し文と解説を加えて発行した。改訂版では宿を貸してくれる人の情報が1.5倍に増え、12人の実名が追加されている。前書きには眞念がそれぞれの家に交渉したとあり、巡礼の増加に伴い、宿の問題が大きくなっていた状況がうかがえるという。