僧侶に必要なのは「傾聴力」 浄土真宗称讃寺住職 瑞田信弘氏に聞く
『ただでは死ねん』を出版して
「終活」という言葉が普通に語られるように、どんな死に方をするかが問われる時代になった。香川県高松市にある浄土真宗称讃寺の瑞田(たまだ)信弘住職の近著『ただでは死ねん』(創芸社)は、死にかかわる人々のいろいろな悩みを取り上げ、その解決に真摯(しんし)に向き合ってきた記録でもある。精力的に活動している住職に話を聞いた。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
聞くことで信頼構築/釈迦も話を聞いて説法
死に方は生き方/宗教者と医師の協力必要に
――著書には地域の人たちの悩みや問題が細かく書かれている。
父の後を継いで約15年住職を務めて、お坊さんの原点は門徒さんたちの話を聞くことにあると思うようになった。檀那寺の住職として高い位置にいると、それが聞こえなくなる。いつも、門徒と同じ位置で話ができるようでないといけない。
――浄土真宗の蓮如上人は、門徒に説教する時に座っていた高座を取り払い、平座で門徒と膝を突き合わせ、信心について語り合うようにしたという。
そうした原点に立ち返り、相手と同じ目線で話を聞いて、理解するよう努め、感想やアドバイスを語るようにしたい。本を書きながら、これまでの考えが整理できた。今年は、お坊さんになった初心に帰る年にしたい。今までのお坊さんの多くは、門徒の話を聞かないで説教や布教をしていた。そうではなく、最初に聞いてみることが大事なのではないか。
――釈迦も対機説法で、相手の話を聞いてから、それに合う説法をした。
仏教を、こうなってこうなると方程式のように説くと、それでピンと感じる人もいれば、何も感じない人もいる。宗教というものは最終的に感じるもの、心が動くもので、それは話し手と聞き手が一対一の関係になった時に起こる。本を書きながら、そんな坊さんになりたいと思った。
何か言いたいことがあればあるほど、とりあえず相手の話を聞いてみて、それを飲み込んだ上で発信することが大切だ。浄土真宗では聴聞が大事だと言って、門徒にも話を聞きましょうと言ってきたが、それはお坊さんの話を門徒が聞くことに重点が置かれていて、門徒の話を坊さんが十分に聞いていなかったと反省している。
――それは夫婦や親子、会社などにも言える。
こちらが聞くことに徹すると、相手の気持ちは随分すっきりする。話を聞いてもらい、何も結論が出なくても、とりあえず思いを聞いてもらえたことで安心し、心を開くのだと思う。そこで、こちらの話も素直に受け取られるようになる。つまり、聞くことで信頼関係ができる。その大切さを、私を含めお坊さんは忘れていたのではないか。
――東北の被災地では、曹洞宗のお坊さんが「CafedeMonk(カフェ・デ・モンク)」という移動喫茶を開いて、被災者の話を聞いていた。
浄土真宗の寺ではどこでも、永代経や報恩講などで布教師が説教をしているが、聴聞者の数は減り続けている。私が本にたくさんの事例を挙げたのは、読む人がそのどれかに感じてほしいと思ったからだ。そうした部分がないままに、ただ説教を聞かせるだけでは寺はやっていけなくなるだろうという危機感がある。
――副題に「上手に生きて、上手に死のう」とある。
死に方は生き方だと思う。人は誰も、生きてきたようにしか死ねない。だから、逆にどんな死に方がしたいかを考えることが、残された人生をどう生きるかにつながる。人生の最後をどのように幕引きするかは、それまでの人生の過程と無関係ではない。そのことに、早く気が付いてほしい。
――仏教の言う四住期はバラモン教の時代からあり、一家の仕事を成し遂げた後は第三の林棲期で修行し、第四の遊行期で死を迎える準備をしていたという。インドではヒンズー教徒が、晩年になるとアラハバードなどの聖地に、よく死ぬために集まる。
ところが現代は医療が発達したため、むしろ上手に死ねなくなっている。自分なりにこんな最期にしたいと思っていても、今の医療制度に乗ってしまうと、望まない延命治療を施されてしまうこともある。例えば、救急車で搬送されると、医師は命を救うのが役割なので、患者の意思を確認できないまま救命治療を行う。延命するのが幸せだという前提で医療や福祉制度ができているので、そこに個人の意思を通すことは、かなり難しい。
――医療には患者の死は敗北だという感覚がある。
だから、できるだけ死なせない治療を行おうとするので、結果的に、患者の人生の質を下げ、「生きる意味」は二の次にされてしまう。しかし、そうした社会は経済的にも倫理的にも、いずれ行き詰まってしまう。そんな難しい時代に私たちは生きているわけだ。
終末期にどんな治療を受けたいかを聞くと、みんな延命治療は要らないと言うが、現実には病院で延命治療を受けている人の方がはるかに多い。医師の中にも、延命治療を見直す動きはあるので、いい死に方をするために、宗教者と医師が立場を超えて協力する必要性が高まっている。
――「がんと闘うな」という医師も出てきた。
今の社会は仕事も闘いのイメージがあって、農業も楽しんで作物を栽培するより、病害虫と闘うという感じが強いのではないか。それと同じで、がんと闘おうとするのが現代医療だ。それは明治以降の近代の精神だろう。そうではなく、病気と仲良くしろとは言わないが、現実と上手に向き合い、楽しみながら人生を送る生き方を考える時代になっているのではないか。
がんが見つかると、手術で患部を切除するか、放射線か抗がん剤で治療するか選択を迫られる。年齢などを考慮し、痛みは取るが副作用のある治療はしないという選択肢も示し、家族を交え相談するようにしたい。
――本人が決められない原因の一つに、死後の世界が分からないことがある。
だから、どんなに高齢になっても死にたくないと思う。その気持ちこそ、宗教者は聞くべきだ。「いつまで生きたいの」と聞きながら、「孫が結婚するのを見たい」というのであれば、本人の納得できる最期の目標を設定するようにする。死の瞬間まで、生きる意味を問い続けるのが人間で、誰もが「私の人生はよかった」と思い、伴侶や子供たちに「ありがとう」と言って死にたいと願っている。
――心残りのことがあるとよく死ねない。
気掛かりなことを一つ一つ解決してあげることで、安心して死ねるようになる。死に臨むと、人間関係の整理が大事になる。心に引っかかっているトゲを聞きだせるお坊さんがいたら、この人に自分の最期を委ねてもいいと思うだろう。
――一般社団法人「わライフネット」を立ち上げたのは……
高齢者が自分の意思に基づいて社会生活を送り、望ましい死に方をし、死後の手続きなどの支援も行うためで、僧侶をはじめ弁護士、医師、税理士、葬祭ディレクターなどの専門家を集め、いろいろな相談に対応できるようにしている。