三笠宮殿下、学者皇族の誠実な御生涯


 昭和天皇の末弟で今上陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁親王殿下が薨去(こうきょ)された。皇族の中では最高齢の100歳であられた。慎んで哀悼の意を表したい。

 昭和の激動期、そして平成の御代に入っても四半世紀以上を、皇族の中の重鎮として誠実で立派な御生涯を全うされた。

 戦後は歴史学の道へ

 これで、昭和天皇、秩父宮殿下、高松宮殿下そして三笠宮殿下の4人の御兄弟がみな他界されたことになる。昭和はますます遠くなっていくようである。

 三笠宮殿下は1915年、大正天皇と貞明皇后の第4皇子としてお生まれになった。前年に第1次世界大戦が勃発しており、時代は既に「戦争の20世紀」に突入していた。

 殿下は学習院中等科4年を修了後、当時の「皇族身位令」に従い、陸軍士官学校予科に進まれる。さらに騎兵連隊勤務を経て陸軍大学校に学び、先の大戦中は陸軍参謀を務められた。この軍体験、とりわけ支那派遣軍参謀としての経験は殿下にとって大きな衝撃だった。

 殿下が戦争末期の44年に軍を批判して書かれた文書が、94年に発見された。満州事変などについて「現地軍が戦闘を始め、天皇陛下に後始末を押しつけた」というものだ。御自身が皇族であるとともに陸軍参謀という国の要の位置におられた立場からの御発言だけに、歴史の核心部分に迫るものがある。

 戦後、軍服から解放された殿下は、歴史学者としての道を歩まれる。47年に東京大の研究生となってから3年の間に、西洋史から宗教史、さらに古代オリエント史へと進まれた。殿下は古代オリエント史を専攻された第一の理由が、先の大戦での衝撃と反省からであったと自著で述べておられる。

 日本のオリエント研究の発展のために残された殿下の業績は大きい。54年に日本オリエント学会を創設されて会長に就任。79年には東京都三鷹市に中近東文化センターを設立された。東京女子大や青山学院大の講師を務め、さらにロンドン大の客員教授、東京藝術大美術学部の客員教授にも就任されている。

 昭和天皇は生物学の道に進まれ、三笠宮殿下は歴史学の道を選ばれたが、物事を科学的、実証的な目で見られる点で共通していた。社会に対して時に波紋を投げ掛ける御発言も、学問的な良心、一人の人間としての誠実なお気持ちの発露であった。

 晩年は高円宮殿下、寛仁殿下、桂宮殿下の男子3人に先立たれる悲しみを体験されたが、96歳で心臓手術を乗り越える心身の強靱(きょうじん)さを示された。

 そして昨年12月2日に殿下は100歳の誕生日を迎えられた。この時は「100歳を迎えるからといって、これまでと何ら変わることはありません。世界中の人々の幸せを願い、また、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたいと思います」と文書でお気持ちを述べられた。

 長寿国である日本の宮様

 敬老の日を前にした厚生労働省の調査によると、日本の100歳以上の人は約6万6000人に上る。殿下は長寿国日本を象徴する宮様でもあられた。