沖縄県が祖国復帰47年、青年4人が弁論
沖縄県が日本に復帰してから15日で47年になるのを前に、「祖国復帰を祝う大会」が13日、那覇市で開かれた。復帰を経験した世代から復帰後に誕生した若い世代に至るまで約350人が集まり、喜びを共有した。(沖縄支局・豊田 剛)
屋良初代知事の理想とギャップ、那覇市在住の会社員
東京五輪聖火ランナーの孫「沖縄も日本の一部」実感
沖縄市議の町田裕介氏「日本で心からよかった」
祖国復帰を祝う記念大会は10年ほど前から毎年、復帰の日の前後に県内で開催されてきた。歴史を風化させてはならないという思いから、保守系民間団体などが主体となって開かれてきた。元号が「平成」から「令和」に変わった今年は、「家族愛・郷土愛・祖国愛」がテーマとなり、初めて弁論大会の形式がとられた。
那覇市在住の会社員、仲村隆次さん(24)は、「初代県知事の屋良朝苗氏については革新政治家としてのイメージが強かったが、祖国復帰は沖縄の子供たちを日本人として教育したいという教育者としての強い使命だったことに気付いた」と話した。その上で、日本政府は沖縄県民を先住民族と公式に認め、国連が5回も先住民勧告を出している現状について、「屋良氏が悲しむ方向に進んでいる」と警鐘を鳴らした。
与那原町在住の教師、神田直人さん(31)は、祖父が1964年の東京五輪で使用したという聖火トーチを披露し、「復帰前の沖縄にたくさんの日の丸が掲げられ、ランナーとして走った祖父の思いは『沖縄も日本の一部なのだ』と感動した。その心が祖国愛ではないか」と訴えた。
「ノンポリの家庭で育った」という神田氏は自戒を含めて、「沖縄県民の無党派層の多くが左派に投票する現実がある。左翼的な思考を知らず知らずのうちに刷り込まれている」と指摘。「家族と沖縄は好きだが、日本は好きではないという矛盾があり、祖国愛については危ない響きを感じてしまっている県民が多い」と語った。
沖縄市議の町田裕介氏(37)は、米統治のまま、独立、日本復帰という三つの選択肢がある中、「沖縄県が日本で心から良かった」と強調した。
西原町議の伊集悟氏(49)は、子供の3人に1人が貧困、中学生の学力は最下位、高校中退率・大学進学率が全国最下位など、子供たちを取り巻く厳しい環境が世代間連鎖していると指摘。「目覚ましい経済発展を遂げ、豊かで光が当たっているが、影の部分である子供たちに光を当てない限り、屋良氏が思い描いた沖縄は実現できない」と苦言を呈した。
復帰前の沖縄をよく知る世代からも熱弁が振るわれた。主催者を代表して、日本会議沖縄県本部の玉城正範会長代行は、「戦争で失った領土を平和のうちに回復するのは世界の歴史上、類まれだ」と指摘し、「県民の熱烈な努力と国民の支援によって勝ち取った祖国復帰は世界に誇れる快挙で、沖縄県民だけでなく日本全国が誇りを持つべきである」と訴えた。
元自衛官で沖縄郷友(ごうゆう)会の藤田博久会長(64)は、「沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され復帰運動が始まった1960年当時は各家庭で日の丸を掲げ、君が代を歌い、標準語を話すよう教育していたが、復帰が決まった69年頃から日の丸にも君が代にも反対するなど教師の態度が180度変化した」と振り返った。また「沖縄の教職員組合が日教組の影響を受けた結果が自衛官への迫害、差別だった」と説明した。
復帰当時、那覇市の小学校の教員だった上原義雄氏(82)は、「沖縄返還協定批准貫徹大会」を組織し、東京に要請行動した。「最初は純粋な復帰運動が反日反米運動に変わったことに気付いた」という67年の教育者研究集会の一幕を披露した。
「3年後に安保期限を迎えるが教職員会は安保に賛成かどうか私が尋ねたところ、『反対する』という返事。次に、他国の侵略から誰がどう日本を守るのかという問いには『平和を愛する我々が守ります』との無責任な回答があった」という。
上原氏が経験した生々しい復帰闘争の体験談には一段と多くの拍手が寄せられた。
12日には東京・九段の靖国会館で祖国復帰記念大会が行われ、沖縄県内外の青年弁士8人が演説した。大会後には復帰記念パレードを行い、日の丸の小旗を振りながら沖縄の祖国復帰を喜んだ。
東京大会を主催した日本沖縄政策研究フォーラムの仲村覚代表は、「祖国復帰を果たした先人の体験は、今の沖縄と日本の安全や国家再建のための教訓が多く含まれている」ため、教訓を後世に伝えていくことが重要だと説いた。今後、政府、県主催の大会を実現するよう要望を続けていく意向だ。