祖国復帰の歴史と情熱を後世に、沖縄県宜野湾市で42周年式典
各界の有識者ら約800人が参加
5月15日、沖縄県は日本に復帰して42年目を迎える。10日には、「世界をリードする誇りある沖縄県を目指して」をテーマに沖縄県祖国復帰42周年記念大会(主催・同実行委員会=中地昌平会長)が宜野湾市民会館で行われ、国会議員、市長、県議など各界の有識者ら約800人が集まった。参加者は、祖国復帰に尽力した先輩方に恥じないよう、日本人であることに誇りを持とうと誓った。(那覇支局・豊田 剛)
日本の安保担っているのは県民
「沖縄人」の誇り、「日本人」が基礎
大会のオープニングを飾ったのは、那覇市の保育園児による体操のパフォーマンスと教育勅語(口語訳)の暗唱。国歌斉唱では、園児が舞台中央で国旗に向かって姿勢正しく斉唱したのが印象的だった。
「人間には自らの運命を開拓する英知と、どの道を選ぶべきか選択の自由がある。また、民族には、民族としての自覚と魂があり、そして政治的な独立と自由への憧れは民族の本能的な欲求である」
中地会長は、沖縄の復帰交渉の中核を担った、石垣市生まれで第7代早稲田大学総長の大浜信泉氏の言葉を引用し、「復帰運動には歴史的必然性があった」と強調した。
その上で中地氏は、「祖国復帰の意義を多くの県民、国民と共有し、次世代を担う青少年にその歴史と情熱を伝えることが大切だ。祖国復帰をなした先輩方に恥じないような沖縄県民、国民であろう」と訴えた。
大会では、復帰を経験した世代を代表して、元中学校教諭の上原義雄氏が登壇した。上原氏は、復帰の5年前の昭和42年2月、沖縄で勃発した教公二法阻止闘争などが原因で、革新系の沖縄教職員会を脱退し、保守系教組を立ち上げた人物だ。
上原氏は、当時ほとんどの教職員が阻止行動に参加した中、「教職員は日米安保反対の手段として闘争している。私は教公二法に賛成です」と主張したことを明らかにした。また、沖縄教職員組合の実態について、祖国復帰の前後は自衛隊と米軍に反対する闘争を教育の場に持ち込んだが、現在では米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設反対闘争を教育の場に取り込んでいると訴えた。
引き続き、復帰後世代を代表した那覇市議会で最年少26歳の奥間亮議員は、県の若者に向けて「若者こそ信念を持って、貫き通すことが必要だ」とし「『差別』『屈辱』『負担』などマイナスな言葉ばかり並べるのではなく、祖国の安全保障を担っているのは沖縄県民だという誇りと信念を持って行動に移そう」と呼び掛けた。奥間議員は、1月の那覇市議会臨時議会で自民党会派が「仲井真知事の(名護市)辺野古埋め立て承認に抗議し、辺野古移設断念と基地負担軽減を求める意見書」を提案し、賛成多数で可決された問題で、勇気をもって反対した一人だ。
来賓あいさつでは、宮崎政久衆院議員が憲法改正について提言した。宮崎氏は「昭和22年に日本国憲法が制定・施行された時、沖縄県は参加していなかった。憲法は47都道府県が参加し、正当な手続きを経て制定すべきだ」と主張。「前に進めていくのが大人の責務であることを復帰が教えてくれた」と述べた。
引き続き、浦添市長で昭和42年生まれの松本哲治氏が米国に留学した際のエピソードを披露。他国の留学生がそれぞれの国歌を正々堂々と歌った時に、自身が国歌を歌えなかったことについて「自分は何者かと自問した」と証言。沖縄では国歌を習ったことも歌う機会もなかったという松本氏は、「いったいどの国に何人として生きていくのか」と考えさせられただけでなく、「日本人として生きていることの誇りと特権、そして、日本がどれだけ素晴らしく恵まれた国か痛感した」という。またアイデンティティーについて、「百パーセント、ウチナーンチュ(沖縄人)であるという誇りは、日本人であるという基礎に根付いてこそ花咲く」と語った。
このほか、桑江朝千夫・新沖縄市長、安里繁信元日本青年会議所会頭があいさつ。仲井真弘多(ひろかず)知事のメッセージも読み上げられた。
大会は最後に、「戦争によらずして領土返還が実現した事例は歴史上きわめてまれである。沖縄の祖国復帰が、世界に誇ることのできる歴史である事を後世に伝えていくことを決意する」という趣旨の決議文を採択。同決議文を安倍晋三首相と仲井真知事に渡すことを約束し、参加者一同で万歳三唱して閉幕した。
大会決議文
一、祖国復帰運動に尽力した人々の功労を顕彰し、復帰の喜びと誇りを学校教育で教える
一、沖縄の経済発展に向けて各人が一層尽力し、政府に対して安全保障上重要な島しょ県として格別の配慮を求める
一、領海警備体制の一層の強化と南西諸島の防衛体制の拡充を政府に対し求める
一、普天間基地の一日も早い危険性除去のため、実現可能な対応を取るよう沖縄県に要望する
一、祖国復帰が実現した5月15日を「祖国復帰記念日」として沖縄県および政府主催による式典開催を要望する
教公二法阻止闘争
「教公二法」とは「地方教育区公務員法」「教育公務員特例法」のこと。法案には教職員による政治活動の制限や勤務評定の導入などが盛り込まれていたため、昭和42年2月24日、法案採決に反対する沖縄教職員会ら約2万人が議会前に集結、廃案となった。