「複雑」な沖縄を描くことでメディアの怠慢も追及したNW日本版

◆賛否の二択で表せず

 「沖縄は事あるごとにメディアに登場するが、その報道の多くは一面的な事実を全てであるかのように語り、時に幻想的な『沖縄』像をつくり上げてきた。あるいは都合のいい声だけを拾い上げてきたとも言える」

 ニューズウィーク日本版(2月26日号)の特集「沖縄ラプソディ」の書き出しである。ノンフィクションライター石戸諭の15㌻にわたるルポだ。

 なぜ沖縄はこのように伝えられないのか、このように描けないのか、というのが記事を読んだ第一印象である。沖縄が抱える「複雑」さは、基地をめぐって賛成・反対の二択では表せない、個人史から琉球史まで、その広い時間軸と、観光客で賑(にぎ)わい経済の中心である県南部と開発から取り残された県北部といった地域の差など、さまざまなものが絡み合い、それぞれのカクテルを作り出しているところからくる。石戸は丹念にそれらに目を向けているのだ。

 今、沖縄と言えば「辺野古」しかないように見えるが、そんな単純なものではない。恐らく読者はそれを知りつつも、本土から沖縄を見るとき、単純化して辺野古への「賛成か反対」で見てしまいがちだ。小紙の動画サイト「国益ネット放送局パトリオットTV」で、フリーライターの知念章が、「県民投票で『反対』が多数となっても、沖縄全体が『サヨク』だと誤解しないでほしい」と語っていたが、沖縄は決して一色ではなく、さまざまな色が、それもモザイクではなく、グラデーションになっていることを理解してほしいという要望だ。

 だから「どちらでもない」という選択肢が県民投票に入れられた意味は、それこそが複雑な沖縄県民の考えを映しているからなのである。決して「どちらでもいい」という曖昧なものではない。「どちらでもない」と賛成も反対も否定しているのだ。

◆偏向に手を貸す大手

 沖縄報道が単純で偏ったものになっていることについてはメディアの責任が大きい。とりわけ、自身を伝えるべき地元メディアが一方の声だけを「沖縄県民の声」として伝えてきた“弊害”は犯罪的と言ってもいいだろう。

 「辺野古について報じられるのは反対運動ばかりだ」「辺野古に住んでいない反対派の声ばかりが大きく取り上げられる」「メディアの人は米軍が悪いことをしたら大きく書くけど、良いことをしても載らない」

 こうしたメディアの姿勢は沖縄の姿を大きく歪(ゆが)めてきた。石戸は「普通に聞いた話が報じられることがあまりに少ない」と、当たり前のことを指摘するが、石戸がかつていた毎日新聞をはじめとして、大手マスコミがそれに手を貸してきたのは否定できない。

 この記事を貫くのは沖縄の「複雑」さである。「チャンプルー文化なのさ」とあるDJは石戸に語る。チャンプルーは「混ぜこぜ」を意味する沖縄の言葉だ。混ざっているものを単純化はできない。できないことをやってきたのがこれまでのメディアだったということだ。

 石戸には沖縄を取材して見えてきたものがある。「複雑の奥にあるシンプルな本質だ。沖縄の問題は『米軍基地が多過ぎる、経済が弱過ぎる』ということに尽きる」ということだ。一周回って振り出しに戻った感があるが、必要な視点を指摘している。

◆日韓関係の再構築を

 話変わって、1月29日号でも特集されていたが最近の日韓関係の悪化は「世界」からも注目されているようだ。今号でも「『最悪』日韓関係の処方箋」の記事が載っている。一橋大准教授のクォン・ヨンソクによるものだ。「本音の議論」をすれば、「すべて解決済み」の根拠となっている1965年の日韓基本条約で「棚上げにした歴史問題がほこりをかぶり、棚おろしの必要が生じた」から、日韓関係をリフォームする時期ではないか、ということだ。

 日本としては受け入れ難いが、国力の成長や国際情勢の変化などを踏まえれば、十年一日のごとく、同じ関係ではいられない。河野太郎外相が「戦後の日韓関係を根底から覆す」と反発したが、むしろこの際いったん日韓関係を崩し、新たな在り方を構築すべき時に来ているのかもしれない。戦後70年、一貫して平和国家、経済技術大国として世界平和と成長に大きく尽くしてきた日本の貢献を認めさせるべきなのだ。(敬称略)

(岩崎 哲)