NATO加盟の独伊との違い無視し日米地位協定改定を主張する沖縄紙

◆「血の同盟」NATO

 「戦争と革命の世紀」。ドイツ出身の米思想家ハンナ・アーレントは20世紀をこう呼んだ。戦争と革命は別物ではなく、「暴力」が両者の公分母になっているとも言っている。とすれば、21世紀もまた「戦争と革命の世紀」か。ロシアのクリミア侵攻、シリア内戦、中国の人権弾圧…、暴力が今なお続いている。

 遺憾なことだが、戦争は人類歴史の始まりとともに存在した。歴史学者によると、ギリシャの詩人ホメーロスや中国の殷の時代から3500年間に、戦争の記録がないのは200年余にすぎないという。こういう歴史をリアルに顧みれば、国が安全保障に腐心するのは当然の責務と言わねばならない。

 例えば、2度の大戦と冷戦の矢面に立った欧州では、ソ連に戦争を思いとどまらせるために北大西洋条約機構(NATO)という軍事条約を結び、加盟国1カ国への武力攻撃でも全加盟国に対する攻撃と見なし、自国民の血を流してでも他の加盟国を守る(第5条・共同防衛)。そんな「血の同盟」が国連憲章の認める集団的自衛権だ。

◆日米安保こそ不平等

 ところが、共産党はこうしたリアルな現実を意図的に隠蔽する。小池晃書記局長は7日の参院予算委で、イタリアやドイツなどの地位協定は国内法令が適用されるのに対して、日米地位協定は適用されないのは「屈辱的」だとして河野外相の見解を求めた。

 沖縄県は3月末にイタリアやドイツが米国と結ぶ地位協定の実態調査を実施し、「日米地位協定との差が改めて浮き彫りになった」とする報告書を発表しており、小池質問はそれをなぞっている。

 これに対して河野外相は「NATO加盟国の相互防衛の義務を負っている国と、それと異なる義務を負っている日本との間で地位協定が異なるということは当然あり得る」と述べた。日米の場合、米国は日本のために血を流すが、日本は米国のために血を流さず基地提供義務にとどまる、片務条約だ。どう見ても「屈辱的」なのは米国民の方だろう。

 この共産党の質問に呼応するかのように沖縄タイムスは8日付1面肩で「地位協定の違い『当然』 河野外相が認識」と問題発言のように報じ、2面では「不平等な地位協定許容 沖縄の負担顧みず」との見出しを立て、河野発言を「『不平等』な日米地位協定をさらに正当化し、許容しているようにも映り、改定に及び腰な政治の姿勢を示している」と批判した。

 話はあべこべだろう。「不平等」なのは日米安保条約で、「改定」を主張するなら双務条約にせよと言うべきだ。それには集団的自衛権の行使を容認する必要があるから、憲法9条改正も唱えるべきだ。

◆核共有政策とる独伊

 ところが、同紙の西江昭吾記者は16日付1面コラムで、イタリアのディーニ元首相が地位協定の調査で訪れた県職員に「米国の言うことを聞くお友達は日本だけ。米国は日本を必要としている。うまく利用して立ち回るべきだ」と述べたとし、「この助言を、河野外相はどう聞くだろう」と的外れなことを言っている。

 ディーニ元首相が日米安保条約を理解しているのか怪しいが、少なくともイタリアは軍事では米国の「お友達」どころか「夫婦」のような関係にある。同じ敗戦国でも日本と違って戦後いち早く軍隊を再建し、1949年のNATO結成に加わり、有事には同国軍はNATO軍の指揮下に入る。駐伊米軍も外国軍隊でなくNATO軍だ。

 おまけにイタリアは米軍の核兵器を自国内に配備し、有事にそれを自国軍のものとして運用する「ニュークリア・シェアリング」(核兵器共有政策)を採る。米国の「核の傘」に入るだけでなく、有事に自ら“核保有国”となって自衛する。ドイツも同様だ。

 それで日米地位協定は独伊と「大きな違い」が出てくる。沖縄紙が平等を主張するなら、両国がソ連の脅威に立ち向かったように中国の軍事的脅威から目をそらさず、米軍普天間飛行場の辺野古移設に賛成するのが筋だ。

 冒頭のアーレントは革命の際に「人民」が求めたのは「政治以前の暴力」だったとしている。過激な反辺野古活動にもそんな「暴力」の臭いがする。それに手を貸す沖縄紙はどうだろうか。

(増 記代司)